08

 気が遠くなるほどの膨大な歴史を蓄積し続ける二重らせん、それを複製する際に発生した重大なエラーが“最強”五条悟を生んだ。

 自然淘汰が連続する生物界において、突然変異は決して珍しいことではない。適者生存のための有益な変異は、数多の死を重ねながらも確実に次代へと受け継がれていく。

 しかし五条悟が持つこの六眼は、この無下限呪術は、必ずしも五条家の血を継ぐ人間全てに発現するとは限らなかった。このふたつが同時に現れるとなればさらに稀で、あまりに稀有であるがために、一部の卜者からは凶兆として畏怖されるほどだった。

 何代にも渡って深く刻まれ続けるDNA暗号、そのたった数パーセントの違いが世界を二分している。呪霊が見える者とそうでない者に。そしてそこからさらに強者と弱者に分けられ、両者の間には決して交わることのない大きな隔たりが生じる。

 五条悟が持って生まれた六眼と無下限呪術の取り合わせは非常に稀であり、圧倒的な強者である証だった。数多の凡夫とはスタートラインそのものが違った。“最強”の戴冠は産声を上げるずっと前から、母の胎内で六眼と術式を獲得した瞬間にはすでに決まっていたと言っても過言ではなかった。

 ということは、つまり五条悟は五条家や呪術界にとって――否、この世に連なる全ての人類にとって、もはや致命傷と成り得るほどの有害な変異なのかもしれない。

「数学は完璧を目指す学問であり、物理学は最適を目指す学問であり、そして生物学は納得できる解答を探す学問である――だっけ」

 ふと脳裏に過ぎった文字の羅列をひどく小さな声音に乗せ終えると、五条悟は巨大な冷蔵庫の扉を片手で静かに閉めた。蒼の眼前に佇立するそれは、食堂で振る舞われる大量の食材を一手に蓄えている。

 無機的で不愛想な扉からゆっくりと指を離しつつ、どこかで聞いた著名な生物学者の言葉にのかんばせを重ねた。意図せず浮かんだのは陰を孕んだの孤独な表情だった。類稀な麗貌を曇らせた悟はやや俯き気味に呟いた。

「……アイツ、ちゃんと納得出来てんのか?」

 しかしすぐにその問いはにとってお節介でしかないと唇をきつく結んだ。悟にはのことがよくわからなかったが、当の本人から理解を求められていない以上、悟の止めどない感情はただの身勝手な好奇心であり、から見れば野次馬根性以外の何物でもないに違いなかった。

 いっそ一足飛びに暴いても良かった。断片的な真実しか語らないが隠す、その全てを。それこそ数日前の、煙る秋霖で対峙したときのように。

 けれど、今の悟にはそれは出来なかった。着信拒否以上の拒絶を心のどこかで恐れていた。二の足を踏む理由にはもうとっくに察しが付いている。が何か途方もない陰謀の渦の中心に身を置いていたこと、それ故に静かな暮らしを望んでいること、今はそれだけで充分だと宥めるように己に言い聞かせた。

「そろそろだな」

 月日と共にくすんだ壁時計に蒼穹の視線を這わせてそう言うと、悟は調理場のカウンターに引っ掛けていた薄手のジャケットに手を伸ばした。漆黒のそれに袖を通しつつ食堂を出るや、特に迷う素振りもなく、この世の理から外れた生き物が活発化し始める夜半の中をやや足早に歩いていく。昼間は過ごしやすい気候とはいえ、深更も近くなればさすがに少し肌寒さを覚えた。

「……よくこんな時間まで働くよ」

 嘆息混じりの小さな響きが暗闇に撹拌していく。憲法典には勤労は義務だと定められているが、仮病で学業をすっぽかし、あまつさえ敬慕する九十九由基の名を騙ってまで精を出すようなことだろうか。嘘に嘘を重ねて時給八百円で働くの、初春の紅鏡にも似た笑みが脳裏を掠めるや、悟の歩く速度が半ば無意識的に速くなった。

 歩くというよりもはや駆け足で山道を下る悟の頭からは、“道半ばを待ち伏せする”という当初の企みはすでに跡形もなく消え去っていた。



* * *




「……五条くん?」

 耳朶を打った胡乱な声音に、五条悟は道化師めいた軽薄な笑みを返した。薄暗いコンビニの裏口から出てきたは悟を認めるや、ひどく不愉快そうに顔をしかめている。微かに揺れる象牙色のポニーテールが照明灯の白光をちらちらと反射していた。

 無論のそれは想定内の反応だったが、人々が寝静まる頃合いにこんなところまでわざわざ足を運んだ悟としては、正直遣る瀬無いというか何というか、身体を支える背骨に内側から深く爪を立てられているような感覚だった。とはいえ、そんな複雑な感情を、裏口に設置されたどこか心許ない屋外照明に暴かれるのは御免だった。

 浮付いた笑みをより濃く浮かべた悟はジーンズのポケットに突っ込んでいた右手を持ち上げ、それを白磁の美貌の傍らでひらひらと軽やかに振ってみせた。

「バイトお疲れ」
「……どうしてここにいるんですか」
「どうしてって、迎えに来たんだよ。当然でしょ?」
「……当然?夕食の件はもうお断りしたはずですけど」
「その通りなんだけど、時間まで聞いちゃったらね。だってほら、こんな時間にこんなに綺麗な女の子がひとりで出歩くのは危ないなと思って。あ、大丈夫だよ?送り狼なんて野蛮な真似するつもり、一切ないから」

 飄々と言い訳めいた言葉を連ねれば、は眉間に皺を刻んだまま抑揚に欠けた声を押し出した。

「ひとりで平気です」
「駄目だよ。だって何かあったら可哀想でしょ?――を襲った相手が」

 真正面からを深々と穿つや、悟は勿体ぶった台詞に底意地の悪い嗤笑を添えてみせた。さらに険を孕んでいくのかんばせに目を置いたまま、やや大袈裟な身振り手振りと共に滔々と説明を加えた。

「お前を襲っておいて生きて帰れる保証がどこにあんの?山に埋められてお陀仏なんてあんまりだよ。それに天元様だって自分の結界内に死体なんか埋められて良い気はしないんじゃない?」

 形の良い唇が紡ぐ皮肉げな言葉に、は肩をすくめて嘆息した。

「……そこは嘘でもわたしの心配をするところだと思いますけど」
に嘘なんて響かないだろ?」
「だからって本音を言って響くとでも?」

 は軽薄な笑みを絶やさぬ悟を睥睨しつつ、矢継ぎ早に氷針を含んだ言葉を返した。不快感を露わにしたまま悟に歩み寄ると、両手にぶら下げたコンビニの白いレジ袋のひとつをずいと差し出した。

「どうぞ。お約束の品です」

 口早な響きに促されてそれを受け取れば、中には硝子の好む煙草が2カートン入っていた。廃棄の弁当がたっぷり詰め込まれたレジ袋を手に、悟の脇を抜けるようにして歩き出したを追うと、悟はその半歩後ろを歩きながら質問を投げかけた。

「昼間訊けなかったんだけどさ、なんで“九十九由基”って名乗ってんの?ここじゃ本物を知る人間も多い。バレるリスクのほうがでかくない?」
「意外とそうでもないですよ。呪術師も補助監督も、皆さん“人間”のことより“呪霊”のことで頭がいっぱいです。面倒事に首を突っ込みたくないんでしょう、同姓同名に疑問を覚えても誰も尋ねてきません。五条くんとは違うので」

 付け足された嫌味に悟はきつく眉を寄せた。背骨をがりがりと引っ掻かれる感覚に呆れにも似た困惑を覚えた直後、冷たく詰るような尖った声音が鼓膜を叩いた。

「何の用ですか。わざわざ煙草を受け取りに来たわけじゃないですよね?」
「うん。全然違うね」
「だったら説得――いいえ、脅しですか?わたし、何を言われようと何をされようと、五条くんが望むような術師には絶対なりません」
「あーやめやめ。今夜はそういう話抜きだよ」

 心底嫌気でも差した様子で悟が左右に首を振ると、はその場で足を止めた。コンビニから過分に漏れる人工灯が、振り返ったに滲む怪訝な表情を仄かに照らし出している。白秋を歓迎する自然の声だけが響く夜闇の下、悟はおどけた口調で高らかに告げた。

「時代が生んだ天才シェフ五条悟が、今宵、のためだけに絶品料理を振る舞いまっす!」
「………………はい?」

 たっぷりの沈黙を挟んで、驚愕に目を瞠ったが辛うじて胡乱な声を押し出した。全く予想外の発言に唖然を通り越して愕然とするに、悟はひとり悦に入った様子でくつくつと喉を鳴らした。未だ瞠目するのかんばせを気安く覗き込みながら、先の提案を易しく噛み砕いてやった。

「だからさ、今からにイイモノ食わせてやろうと思って。腹減ってるよな?」

 軽快な語調でそう尋ねると、まるで頃合いを見計らったようにの腹の虫が低い返事をした。黒いサングラスの向こうで目を瞬くや、悟はすぐに大口を開けて笑った。は顔を真っ赤にして羞恥に震える声を張り上げる。

「……夕方の休憩から何も食べてないんです!」
「別に何も言ってねぇだろ」
「わ、笑ってるじゃないですかっ!」

 ひっくり返ったその響きにますます悟は哄笑した。が「笑わないでください!」と危険な角度に眉を吊り上げたのは、しかしほんの僅かのことだった。やがて諦めた様子で緩く肩を落とすと、腹を抱えて笑う悟を視界から外した。

「恥ずかしい……もう最悪……」と顔を逸らして呻くの赤い横顔に、青よりもなお蒼い視線が釘付けになっていた。ぞくりとした。自らの支柱である背骨を、内側から熱を孕んだ指の腹で撫で付けられているような感覚だった。

 その表情をもっと見ていたいと思う衝動を、自分ではもはや止められなかった。しっかりと蓋をしたはずが、その感情は中から押し上げるように漏れ出していた。しかしながら首をもたげた劣情には見ないふりをして、絶世の麗貌に軽薄な笑みを拵えた悟は確認するように尋ねた。

「腹減ってるってことで良いよな?」

 は唇を横一文字に結んだまま、やや俯きがちの頭を小さく上下させた。声なき返答に悟が満足げににやりと笑んだ。

「だったら早く食堂行こうぜ!」

 言うや否や、悟はの左手から弁当の入ったレジ袋をするりと掠め取った。「えっ」と素っ頓狂な驚声が鮮やかな唇からこぼれ落ちたときには、空になったのそれは悟の大きな右手の中に収まっている。たったそれだけで悟の心臓は早鐘を打っていた。

 ひどく短絡的な自分に内心苦笑しつつ、悟はの華奢な手に指を絡めながら土瀝青を蹴って駆け出した。身体が熱いのは疾駆しているせいだと言い聞かせた。「ご、五条くんっ」と上擦った呼声がすぐ後ろから聞こえた。は数秒の間を挟んで質問を飛ばした。

「イイモノって何ですか?」
「内緒!こんなとこで言うわけないでしょ!」
「あの、それ、コンビニのお弁当より美味しいですか?」
「当たり前だろ!比べるまでもなく絶対美味いから期待してろよ!」

 弾むような悟の返答が可惜夜に撹拌すれば、の指先に僅かながら力が篭もった。より強く地面を蹴って悟と並走すると、は白磁の美貌を覗き込みつつ平然とした表情で首を傾げてみせた。

「五条くん、もっと速く走れないんですか?」
「はぁ?!無茶言うな、これが全速力だっつの!」
「じゃあ術式を使って瞬間移動とか」
「俺だけなら出来るけど、誰かと一緒にってのはまだ無理!」

 深く絡まる指を離さぬための嘘偽りが見破られることはなかったが、途方もない食欲に火が点いたは一刻も早く食堂に辿り着きたい様子で執拗に提案を重ねた。

「お弁当返してください。わたしが持って走ったほうが速いです」
「却下!」
「それなら手を離してください。腕を振って走ったほうが速いです」
「それも却下!」
「合理性に欠きます。どう考えても手を繋ぐほうが遅いと思うんですけど」
「俺がそうしたいんだよ!いちいち文句言うな!」

 ぎゃんと吼えた後で墓穴を掘るような発言だったことに気づいたものの、がそれに深い意味を覚えた様子はなかった。噴いた焦燥が引くと同時にある種の空しさが滲み出したが、悟は一喜一憂の感情を振り払うように緩やかな坂道を駆け続けた。

「お腹が空いて死にそうです。五条くんのこと抱えて走っても良いですか?」と尋ねる同情を誘うようなの提案は、もちろん無視しておいた。