03

、バイク乗れんの?」
「はい。由基ちゃんに憧れてすぐに免許を取ったので」

 降り注ぐ秋霖の伴奏に重なる軽やかな返答に、五条悟は「ふーん」とどこか気のない相槌を打った。駐輪場の屋根の下、呪術高専が所有する黒塗りの普通二輪車に対して、はすでにマニュアル通りの運行前点検を始めていた。

 ブレーキの効きを確認するその華奢な背中から蒼い視線を外すと、悟は右手に掴んだままのヘルメットに鼻先を落とした。ところどころ塗装の剥げた黒いそれをきつく睨め付け、拭い切れぬ不満を露わにしながら抗議の声を上げる。

「なぁ、やっぱタクシー呼ぼうぜ。どうせ経費で落ちるんだからそっちのほうが良いって。この雨だし事故ったらマズいでしょ」
「バイクのほうが圧倒的に速いです。文句言わないでください」
「えーメットやだ。被りたくない。せっかく髪セットしたのに崩れんだろ」
「そっちが本音じゃないですか……道路交通法違反で捕まりますので着用お願いします」
「だから嫌だって言ってんだけど。、上手く逃げてよ」
「今から警察の方と一緒にお仕事するんです。無理です」

 しかしは呆気ないほど冷然とした口調で悟の不服を一刀両断してみせた。「俺のほうが立場が上ってわかってる?」などとぶつくさ文句を垂れる悟に取り合うこともなく、精一杯の背伸びで長身痩躯の白髪男にヘルメットを被せようとした。

 無論、悟がそれに大人しく従うわけもなかった。素知らぬ顔で自らもまた背伸びをして、そのうえ上体を逸らしての手から逃れようとする。牛乳瓶めいた分厚いレンズの向こうで、輪郭のおぼろなの明眸が険しい色を孕んだ。

「……五条くん」
「あーはいはい」

 諦めたように平板な声を押し出すと、悟は背中を丸めての眼前に白髪頭を差し出した。されるがままの悟はヘルメットの窮屈さに辟易しながら、蒼穹の視線だけを持ち上げて濁った鉛空を見つめた。タンデムデートに乗り出すには、生憎の雨模様だった。

 悟に対するの態度は、少なからず軟化していた。ひどく頼りなげで内気な振舞いからの変化だから、“軟化”という表現は厳密には正しくないかもしれない。悟への警戒心は未だ強く感じられるものの、自然以上の自然な演技で当たり障りなくやり過ごそうとする、のあの面白くない態度はほとんど映らなくなっていた。

 被験体識別番号“玖號肆式”――ほぼ全ての文章が黒く塗り潰された機密文書の中でも一際目を引き、半ば無意識のうちに重要な情報として悟の脳髄に刻まれていたその言葉。

 詳細は全く不明だが、あのときのの言動から察するに、呪術に関する何らかの非人道的な“実験”を受けていたと見て間違いないだろう。とはいえ経緯はどうあれ、“持っている側”であるが堂々と弱者を演じるのは、悟にとって到底理解しがたい行為以外の何物でもないのだが。

 頭が切れること、強い術師であること、上層部に尻尾を振らないこと。計算尽くの名演技と悟の六眼を出し抜く異常なほど繊細な呪力コントロール、そして言葉の節々から時折感じられる呪術高専に対する不信感――は悟が今求めている条件を充分に満たしているし、何より謎に包まれたその背景も含めて個人的興味は全く尽きない。態度がいくらか軟化し、悟への遠慮が多少なりともなくなった今なら尚のことだった。

 低く唸り始めたバイクの後部座席に跨った悟は、ブレーキを握るの小さな背中を見つめた。

 揺さぶりをかけての化けの皮を剥がそうと“口説き落とす”などと豪語したが、これはひょっとすると自ら余計なスイッチを押してしまったのかもしれない。そうでなければ他愛ない二人乗りをタンデムデートなどとは考えなかっただろうし、この雨模様に対して思うところもなかったはずだ。

 悟は妙な意識を始めた自分から目を逸らしつつ、至って平静を装ってに質問を投げ付けた。

「大型じゃないんだ。大型取らねぇの?」
「免許は持ってますけど、二人乗りはまだできないんです。普通で我慢してください」
「別に文句言ってねーし」

 不満を示すように唇を軽く尖らせての細い腰に腕を回すや、とっておきの悪戯を思い付いた子どもめいた表情で言葉を続ける。

「これから仕事だってのにズブ濡れなんて最悪だろ?特別に俺の無下限で濡れないようにしてやるよ」
「それは助かります。ありがとうございま――ひゃっ!ど、どこ触ってるんですかっ!」

 ひっくり返った驚声が耳朶を打つと同時に、の腰よりうんと低いその場所、子宮が眠る下腹部を撫でた悟の手が勢いよく弾かれていた。悟は叩かれた手を緩慢な所作で引っ込めながら、胡散臭い笑みを浮かべて悪びれもなく答えてみせた。

「いや、ここに特級呪物があんのかと思って」
「……今すぐ降りてください。わたしひとりで行きます」
「は?何言ってんの?駄目に決まってんでしょ。お前絶対そのまま京都へ帰るじゃん」

 いけしゃあしゃあと応じる悟を振り返るや、はその白々しいかんばせを厳しく睨め付けた。分厚いレンズ越しの明眸が“つべこべ言わず降りろ”と無言の圧を放っている。

 悟はひどく大袈裟な仕草で肩をすくめた。エンジンを掛けたまま一向に走り出そうとしないの機嫌を窺うように、雪眉を下げた顔の前で両手をぱちんと大きく打ち鳴らした。

「ごめんごめん、悪かったって。そろそろ出発しようぜ。もう変なところ触んないから。ね?この通り。頼むよ」
「……本当ですか?」
「うん、本当」
「本当に本当ですか?」
「本当に本当だってば。もうちょっと信用してくれたって良くね?あ、そうだ。もし触ったときは罰金たっぷり払うよ。七海と伊地知が」
「後輩からカツアゲするのはやめてあげてください……」

 呆れ返った様子でひとつ嘆息したは眼鏡を外すや、流れるような手付きで目を保護するためのバイクゴーグルを掛け始めた。悟はの肩を掴んで顔を覗き込もうとしたものの、は即座に首を逸らして蒼い視線からあっという間に逃れてしまった。

 今時まるで流行らない牛乳瓶めいた眼鏡と同様、厚みのあるレンズがすでにの明眸をすっかり覆い隠している。不満げに表情を歪めた悟がの肩を前後に揺さぶった。

、ゴーグル外してよ。一瞬で良いから」
「嫌です。死んでもお断りします」
「ケチ。やっぱお前のクソダサい眼鏡もそのゴーグルも、意図的に視力落とすためのもんだろ?しかもその“眼”、他にも何か視えてんだよな?」

 畳み掛けられた質問を完全に黙殺したは、悟の足元へと視線を落とした。どこか気遣うようなそれに、悟は小さく首を傾げる。

「どうした?」
「いえ、その無駄に長い足が巻き込まれないかが心配で」
「そりゃご親切にどーも。あとコレ全く無駄じゃねぇから。イケメン最強術師五条悟の必需品だから。ほら、早くタンデムデートしようぜ」

 平静を装いながらごく自然に放った言葉に、はどこか不愉快そうに眉を寄せた。おそらく“デート”という単語に引っ掛かりを覚えたのだろう。そこまで露骨に嫌な顔をしなくてもと悟は胸の内で苦笑する。“口説き落とす”にはまだまだ信頼が足りないということか。

 整った口元に軽薄な微笑を刻んだ悟は、まるで道化師のような仕草で軽くかぶりを振った。

「あぁ安心して。可愛い彼女募集中だよ?俺」