02

 天から降り注ぐしめやかな点々が、大きな蝙蝠傘を絶え間なく打つ。ある種の情緒を含んだ白く煙る雨景を蒼の双眸に収める五条悟は、緩やかな勾配のついた山道の真ん中でただひとり、人を待ち続けていた。

 車一台通るのがやっとの古びた道路は早朝から降り出した細雨に濡れているものの、苔むした石造りの擁壁から迫り出した木々の下には乾いた土瀝青が散見できる。とはいえ、僅かな晴れ間が覗いたのは昨日くらいもので、先週からぐずつき始めた空合いは日本列島に横たわる秋雨前線の影響でもうしばらく続くようだった。

 開いた蝙蝠傘の露先から、大きな粒と化した雨滴がぽたぽたと落下する。半ば無意識的に無下限呪術を使用する悟にとって、天候とは在って無いようなものだった。傘を差さずに過ごすことなど造作もなかったが、しかしそれでは不審がられるし、何より情緒に欠けるだろう。人生には、無駄なことこそ必要だった。

 悟は黒い雨傘を片手に、風光明媚と言えなくもない深山の景色をしばらく眺めやっていたが、ふいにその視線を山道の曲がり角へと転じた。色素に欠けた長い睫毛が上下した数秒後、濡れた擁壁の向こうから黒いセーラー服を着た少女が現れる。

 安っぽいビニール傘で小雨を凌ぐ眼鏡の少女――は、悟の姿を目に留めるや驚いた様子で足を止めた。悟が迎えに来ることは一言も伝えていないのだから当然の反応だった。悟は緩慢な足取りで山道を下りながら、耳朶を打つ雨音に負けない程度に声を張り上げた。

「遠路はるばる東京へようこそ。俺のこと、覚えてる?」

 はやや間を置いてひとつ頷くと、牛乳瓶のように分厚いレンズ越しに悟を見つめた。

「五条くん、ですよね。特級術師の」
「そ。良かった、忘れられてなくて」

 揶揄するような悪戯っぽい言葉とともに、悟は口端に軽薄な笑みを刻んだ。はどこか幼さの残るかんばせに緊張の色を走らせると、目の前で立ち止まった悟に小さく頭を下げてみせた。

「その節はありがとうございました。ご迷惑をお掛けして本当にすみません」
「いやいや気にしないで。そういや、今年の交流会は出てなかったよね?」
「はい。今年は新入生が多かったので」
「あーそういうこと。春開催だと新入生のお披露目って側面が強いからな。ウチのゴリラは“実力が伸びてきた秋にこそ開催すべきだ”って毎年言ってるよ」
「……ゴリラ?」
「夜蛾だよ夜蛾。アイツが学長になったら交流会、秋に変わるんじゃね?」

 言うと、悟はの細い肩に引っ掛けられた黒のボストンバッグに目を置いた。

「荷物少なくない?」
「こっちで買って、こっちで捨てて帰れば良いかなと思ったので」
「なるほど、それは賢明だね。じゃあ先に買い物行っとく?今なら東京に詳しいイケメンの荷物持ちが付いてくるよ?」
「あ、いえ……ひとりで行くので大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」

 遠慮がちに頭を下げたに、悟はまるで取って付けたような人畜無害な微笑を返した。「じゃあ行こっか」と言葉だけで優しく促すや、目的地である東京都立呪術高等専門学校――呪術高専へと繋がる緩やかな山道をゆっくりと歩き始める。

 切り拓かれた深山に落ちる雨気は、たっぷりと潤いを含んだ色濃いそれへと変わりつつあった。雨脚が激しくなるにつれ、それに比例して蝙蝠傘を打つ雨粒も大きくなっていく。初秋に染まる翠巒の向こうから唸るような雷音がたしかに聞こえた。

 悟は半歩後ろに続くを目の端で一瞥すると、気さくな口調で問いかけた。

「今日何時起き?早起きしたの?」
「……あ、えと、いつもと同じ時間です」
「ここまで遠くなかった?」
「新幹線ですぐでした」
「さすがにちょっと迷ったでしょ」
「いいえ、そこまでは……」

 尻すぼみに消えていく内気な言葉に、悟のどこか胡散臭い微笑が僅かに引きつった。白い皮膚の下に苛立ちを押し込めながら、すぐに天使のそれにも似た媚笑を丁寧に拵えていく。

 先刻から続くの、決して素っ気ないわけではないがどこか空虚なその返答を、悟は微塵も快く思っていなかった。

 己よりうんと等級が上である悟に気後れしているだとか、ただ単に人との会話が苦手だとか、そういった類の理由からの態度ではないのは火を見るよりも明らかだった。は悟との会話を一刻も早く切り上げようとしていた。

 露骨なほど、は悟から距離を置いていた。当たり障りのない態度でやり過ごそうとしていた。去年、交流会で硝子に打たれて失神したを介抱したときもそうだった。は医務室のベッドの上で何度も謝罪と感謝を繰り返したが、今時どこで取り扱っているのかもわからぬほど分厚い眼鏡なしでは、悟と一度たりとも視線を交わそうとしなかった。

 無論、それは相手が悟だからというわけではない。硝子にも夜蛾にも、そして悟のたったひとりの親友に対しても変わらず同じ態度だった。は他人と必要以上に関わることを恐れているような気がした。

 悟はのその態度が納得できなかった。もっと有り体に言えば面白くなかった。が何のためにそうしているのかはもちろん想像は付くが、しかし“”という人間がそれを選んだという事実は悟にとって理解の範疇を超えていた。

 蒼穹の視線を傍らへと滑らせ、艶やかな唇を横一文字に結んで山道を黙々と歩くを捉えた。そんな当たり障りのない態度はいらない。つまらない。ただ暴きたかった。という人間の本心を。肋骨の内側で喧しく喚き立てる好奇心に、“はじめからそうするつもりだった”ともっともらしい言い訳を与える。

 最適解を導くための思考を急速に廻らせながら、悟はわざとらしく愉快げな表情を白磁の麗貌に湛えてみせた。そして、無数の氷針を含ませた声音を勿体ぶるようにに向かって差し出した。

「でも良かったじゃん。京都より東京のほうが絶対伸び伸びできるでしょ。ここには死に損ないの老いぼれジジイも弱すぎて話にならないヒス女も、イジメに精を出すような暇人クラスメイトもいないんだしさ」

 すると、瞬く間にの歩調がひどく緩慢なそれへと変わった。悟は阿るような微笑を拵えると、すっかり距離の空いたを振り返って白々しく首を傾げた。

、どうかした?」
「……あの、五条くん。今の発言、撤回してもらえませんか」
「は?なんで?事実じゃん」

 あっけらかんと尋ねれば、はすぐに目を伏せた。ビニール傘の柄を持つ右手に僅かに力を込めて下唇を数秒噛みしめたあと、意を決した様子で視線を持ち上げた。黒いサングラスを掛けた悟のかんばせを、逃げることなく正面からまっすぐに見据える。

「五条くんから見れば、そうなのかもしれません。でも、わたしは京都校が好きです。京都校にいるみんなが、すごく好きです。だから……そんな風に、言わないでください」
「はっ。お前イジメられてんだろ?何イイコぶっちゃってんの?正直そういうの吐き気すんだけど。つーかのそれってどこまで本心?」
「……どういう意味ですか?」
「そのまんまの意味だよ。じゃあ何?東京なんか来たくなかった?」
「……そう、ですね。できれば京都にいたかったです」

 目を逸らしたが小さく頷いた。僅かに走った躊躇に、の深く被った仮面が少しずつ剥がれ掛けているような気がした。悟は落胆の色を顔いっぱいに滲ませると、売れない舞台俳優めいたわざとらしい所作で肩をすくめてみせた。

「あっそ。そりゃ悪かったな。たまには息抜きも必要だろうと思ってを指名したのにさ」
「……指名?」
「姉妹校交流学習制度を作ろうとしてんのは、夜蛾先生じゃなくて俺だよ」

 その言葉にが胡乱げに眉根を寄せれば、それを見た悟は鼻でせせら嗤った。篠突く雨の中、分厚い眼鏡を射抜かんとばかりにその奥の明眸をきつく睨め付けた。

「ま、だからって制度が導入されようがされまいがどうでもいいんだけどな。俺の目当てはこの“試験的導入”だ。お互い下手な芝居はやめようぜ。頭の切れるお前ならここまで言えばもう充分察しは付いてんだろ?それとも何だ、俺の口から詳しく聞きたくて堪んねーとか?」

 眉をひそめて無言の肯定を返したに、悟は大袈裟な動作でかぶりを振った。これでもなお知らぬ存ぜぬを貫き通そうとするの固い意志は、もはや買って然るべきだろう。悟は潔く諦めるや、淀みない口調で自らの考えを開陳していく。

「俺は京都校の生徒であるお前を一定期間、この東京に堂々と縛り付けておくだけの正当な理由が欲しかったんだよね。つまり姉妹校交流学習制度なんてものはただの回りくどい口実でしかないってわけ」
「……どうして、そんなこと」
「マジ?まだ猫被んの?仕方ねぇな、一回しか言わねぇからよく聞けよ。いくらイケメン最強術師の俺だろうと、女ひとり口説き落とすにはさすがに時間が掛かんだよ。そうやって何重にも猫被ってるお前みたいな女は特にな」

 そこで一旦言葉を切ると、悟は青よりもなお蒼い碧眼を僅かに細めてみせた。

「ところでずーっと訊きたかったんだけどさ……お前、腹に何入れてんの?」
「…………え?」
「その位置だと子宮か?一回見たから知ってんだよな、そのウゼェ小細工」

 言うや否や、黒の革靴が前へ大きく踏み出した。濡れそぼつ土瀝青を勿体ぶった様子で一歩ずつ踏みしめながら、悟はを追い詰めるように距離を縮めていく。

「術式を抑え込むためのものか、それとも呪力そのものを抑制するものか――お前の呪力量から見て後者だろうな。術師として違和感のない程度に、しかも弱い術師のようにごく僅かにムラのある呪力を混ぜて、俺の六眼から巧妙に呪物を隠してる。この俺を欺くなんて並の呪力コントロールじゃできねぇ芸当を、よくもまあぬけぬけと」
「……えっと」
「五条悟が六眼持ちだってことは大抵の奴が知ってる。新入生お披露目会でもある一年時の交流会、お前わざと出なかったんだよな?歌姫から訊いたぜ?“は体調不良を理由に辞退を申し出た”ってな。俺の六眼がどこまで視えてるかわかんねぇから警戒したんだ。で、俺を完璧に出し抜けると踏んだからこそ去年は大人しく出た。図星だろ?」
「……えと、あの」

 しどろもどろに視線を彷徨わせるはもう目の前だった。彫刻めいたかんばせから一切の表情を消した悟は、傾けた黒い蝙蝠傘の露先での安っぽいビニール傘を勢いよく弾いた。

 その衝撃に驚いたように、の痩躯が後ろへよろめいた。大きく揺れたビニール傘から、大粒の雨滴がぼたぼたと滑り落ちていく。が小さく息を呑んだのがわかった。怯えたように肩を震わせるを、凄然とした蒼瞳が容赦なく穿った。

「なぁ。腹に馬鹿げた特級呪物入れて弱者のフリすんのってそんなに楽しい?」
「……あ、あのね、五条くん。ごめんなさい……わたしには何の話なのか、よくわからなくて……きっと、誰かと勘違いしてると思うから……だから……」

 は今にも泣き出しそうな、ひどく困惑した表情で何度もかぶりを振った。自然以上の自然な態度だったが、それは悟にとって想定内の反応でしかなかった。

 蒼穹を溶かし込んだ六眼が白刃めいた鋭い光を宿す。最後まで取っておいたとびきりの手札を明かすように、悟はその薄い唇に不吉な弦月にも似た嗤笑を結んだ。

「すっとぼけんなよ、。いや――被験体識別番号“玖號肆式”」

 その瞬間、分厚いレンズの向こうで明眸が大きく瞠られた。先ほどまでの内気で自信のない色とはまるで違う、紅鏡にも似た明るくてまっすぐな色を悟はたしかに見た。そこに在るのは剥き出しになったそのものだった。

「やっぱりな」とようやく満足げな様子でくつくつと喉を鳴らすと、悟は虚言を弄する道化師めいた口調で説明を付け加えた。

「どうしてそこまで知ってんだって顔だな。当然だろ?特級術師ってのは開示される情報の質も量も一級以下のそれとは大違いだ。俺が特級になったとき、ちょっとした興味本位で総監部絡みの機密文書をいくつか見たんだよ。その中でも特に異質だったのは、俺と同じ特級の九十九由基が関わったある“事件”。報告書に記載されたほぼ全ての文章が黒塗りにされてんだぜ?嫌でも記憶に残る」

 のかんばせには強い警戒の色が滲んでいた。皮膚の下に隠す必要がなくなったということだろう。悟は空いた左腕を濁った雨天に向かって大きく広げ、その唇を軽薄な三日月の形に吊り上げてみせた。

「せっかく娑婆に出て来たんだ。俺と一緒に術師やろうよ」
「……お断りします」

 しかしはきっぱりと言うと、悟の脇を抜けて山道を上り始めた。遠くのほうから雷鳴が聞こえる。「ちょっと待ってよ」とすぐに追い付いた悟に目をやることもなく、ひどく険しい表情で拒絶の言葉を口早に紡いだ。

「術師は卒業するまでって、由基ちゃんとの約束なんです。ごめんなさい、もう放っておいてください。わたし、誰に何をされても絶対に文句は言いません。ただ静かに暮らしたいだけなんです」
「つれねーな。お前は杜王町の殺人鬼か?」
「女性の綺麗な手を偏愛する趣味はないです」
「四部知ってんのかよ」

 けらけらと楽しげに悟は笑った。眉を寄せたは小さく下唇を噛むと、その繊手で下腹部を軽く押さえた。まっすぐ前を見据えたまま、激しさを増す雨脚に負けじと声を張った。

「わたしは死ぬまでこれを取り出しません。呪術も、この術式も、もう一生使わないって決めたんです。だから、ごめんなさい。お願いですから他をあたってもらえませんか」
「やだね。さっき言っただろ?お前を口説き落とすって。子宮に入れたその特級呪物、京都帰るまでに“絶対取り出したい”って思わせてやっから覚悟しとけよ」

 煽り立てるような挑発的な言葉に、が再び足を止めた。「あ、ヤベ。二回言っちった」と完全に道化た態度で悟がぺろっと舌を出せば、は不愉快極まりない様子で悟を目の端だけで睨め付ける。悟は満足げに唇を吊り上げた。

「へぇ。そういう顔もできるんだ」
「……五条くんのせいです」

 毒気を抜かれたようには眉間の皺を弛緩させた。嘆息混じりに大きく肩を落とすと、軽薄な笑みを浮かべる悟のかんばせをじっと見つめる。

 やがてはどこか拗ねた様子で「……もう京都帰る」と泣きそうな小声を絞り出すや、唐突に踵を返した。山道を下ろうとするの細い肩を、しかし悟は目にも止まらぬ速さで掴み取ってみせた。

「いや帰らせねーけど。ていうか良いの?そんな勝手なことして。楽厳寺学長、きっとガッカリするよ?」
「……五条くんに意地悪されたって言います」
「京都の連中にもっと酷いことされてんだろお前……」

 悟が呆れ返った視線を寄越したそのとき、絶え間ない秋霖の音に撹拌して「五条」とひどく気だるげな声が響いた。蒼の双眸を右方へ転じれば、黒い折り畳み傘を片手にゆっくりと歩いてくる硝子の姿を見る。なお下山を諦めないの肩をきつく握りしめたまま、悟は小さく首を傾げた。

「どうかした?」
「どうもこうもないよ。に夢中だからって着信無視しないでくれる?」

 顔を歪めて文句を言った硝子に、悟は肩をすくめて鷹揚にかぶりを振った。

「それを言うなら“との会話に夢中”だろ。誤解を招くような言い方すんじゃねーよ」
「別に誤解じゃないと思うけど」

 硝子の黒目がちな視線がを撫で付けた。懸命に逃亡を図ろうとする姿に同情と憐憫の入り混じった色が走ったのも一瞬で、硝子は普段と変わらぬ気だるげな語調で淡々と指示を紡いだ。

「今からと任務行ってきて。警察と一緒に変死体の調査」
「はぁ?そんなの補助監督にやらせろよ。なんで俺が」
「今日は特に人手不足らしいよ。猫の手ならぬ術師の手も借りたいくらいだって」
「だったら俺じゃなくて雑魚術師にでも――」

 はっとした様子で悟がを見やると同時に、硝子はその細い人差し指をに向けた。

「そこにいるじゃん。四級雑魚術師」
のせいかよ!」

 任務という単語にはようやく逃亡を諦めたようだった。どうやら仕事には真面目に取り組む性格らしい。悟は重い嘆息をひとつ落とすと、面倒臭げに後頭部を掻きながら質問を投げた。

「で、調査の内容は?」
「高円寺のマンションから子どもの変死体が出たんだってさ。しかも何故か先週殺された補助監督の身体の一部も一緒に」
「……身体の一部?」
「うん。それに加えて子どものほうは普通の殺され方じゃないってことより、その死体がどっかの誰かさんに瓜ふたつだってことでなんか騒ぎになってるらしいよ」
「どっかの誰かさんって」

 胡乱げに言葉を切った悟を硝子は冷めた黒瞳で見つめた。天使とも悪魔とも取れる白磁の美貌を真正面から穿ちながら、小さな泣き黒子の浮かぶ目元にどこか不吉な笑みを結ぶ。

「もちろん君のことだよ、五条」