01

 重量感のあるその足音を聴覚で認識するよりずっと早く、五条悟は誰がこちらへ近づいているかを鋭敏に察知していた。

 凡人には到底為し得るはずもない所業だが、しかし悟にとっては心臓が脈打つように至極当然のことだった。誰何を尋ねずとも、対象の身躯から流れ出るごく微量の呪力がそれを確かに教えてくれた。

 寺院へと伸びる長い階段の中途に腰を下ろしているせいで、視線の位置がうんと高い。残夏を拭い切れない秋空には、乾いた筆で引き延ばした白い絵具のような、輪郭の掠れた大きな雲が点々と浮かんでいる。

 頭上に広がる旻天よりもなお蒼い六眼は、自身の黒い足元ばかりを映していた。悟の意識野では絶えず思考が廻っていたが、行き着くべき先はとうに失われている。

 わかっていても、やめられなかった。思考することを心が強いていた。肋骨の内側まで深く沈み込んだこの感情の行き場だけをただ探し求めていた。

 使い込まれた革靴が石造りの長い階段を一段ずつ鳴らした。鼓膜が拾い上げる緩慢な響きは律動的というにはやや物足りなく、どこか躊躇を含んでいるような気さえした。

 それがすぐ真横で止まっても、悟は一瞥すらしなかった。垂れ下がったままの頭がひどく重い。首を押さえる左手指に僅かながら力を篭めれば、重い足音の持ち主――夜蛾正道は数秒の沈黙を挟んで、その分厚い唇を割った。

「何故追わなかった」

 耳朶を打った硬質な低音は努めて感情を押し殺していた。色素の欠乏した長い睫毛に縁取られた目蓋が、ひどくゆっくりとした動きで瞬きをした。耳のずっと奥で、静寂を纏った氷点下の声音が確かに響いている。

「殺したければ殺せ。それには意味がある」

 通りを行き交う人の波に紛れるように遠ざかっていく、周囲から頭ひとつ飛び出した大柄の黒い背中。ほんの数時間前に聞いたそれは微塵も褪せることなく、悟の鼓膜にべったりとこびりついていた。

 悟は首に手を置いたまま白髪頭を持ち上げた。丸いサングラス越しに秋空の差し込む正面を見やったものの、いつまで経っても機知に富んだ言葉が弾ける気配はなかった。

「それ……聞きます?」
「……いやいい。悪かった」

 言うと、普段よりも幾分表情の硬い夜蛾は緩慢な動作で後ろ手を組んだ。悟は蒼穹の双眸で世界を撫で付けながら、情緒に欠けたような質量の失せた声音で担任教諭に尋ねた。

「先生、俺強いよね?」
「ああ。生意気にもな」

 その直後、悟は僅かに雪眉を寄せた。

「でも、俺だけ強くても駄目らしいよ」

 青よりもなお蒼い碧眼は目の前に広がる秋空ではなく、全ての感情が凪いだあの白いかんばせを見ていた。消耗したように血色の悪い相貌に浮かぶ、暮夜を凝縮した厭世的な黒瞳が、いつまでも悟を真正面から穿っている。

「君にならできるだろ、悟」

 たったひとりの親友が告げた、寸分の隙も与えぬ拒絶の言葉。憧憬も嫉妬も諦念も嫌悪もただ一息に飲み込んだ揺るぎない意志は、すでに天高く分厚い隔たりと化して悟の前に横たわっていた。

 白い睫毛に縁取られた目蓋が微かに落ちた。白秋を歓迎する世界をぼんやりと眺めやったまま、悟は抑揚に欠けた静かな語調で続ける。まるで、己に言い聞かせようとするかの如く。

「俺が救えるのは、他人に救われる準備がある奴だけだ」



* * *




「いつまで腐ってんの」
「腐ってねーよ」
「じゃあ拗ねてるんだ」
「拗ねてるわけでもねーよ」

 しかし言葉でそうは言っても、予鈴が鳴り止むと同時に机に突っ伏した五条悟の態度は、どこからどう見ても不貞腐れた子どものようにしか感じられなかった。泣き黒子が特徴的な黒髪の少女――家入硝子はそれ以上会話を続けるでもなく、どこか呆れた様子で気だるげな視線を彼方へと飛ばした。

 いつもと変わらぬ丸いサングラスを掛けた悟は、その蒼い双眸だけで左隣をなぞった。朝のホームルームが始まる十分前には必ず埋まっていたはずのその席が空になって、もうすでに二週間が経過している。たった三人だった同級生が二人になっただけだというのに、教室を満たす空気は全く異なる静寂のそれに変わっていた。

 とはいえ、銀雪にも似た秀眉が物憂い色を湛えたのは一瞬のことだった。悟は机に伏したまま、白いチョークの跡が薄っすらと残る黒板へと視線を転じた。その硬質な麗貌は感情が根こそぎ失せたようにすっかり冷め切っている。

 教室の開いた窓からぬるい秋風が這入り込む。たっぷりと湿気を含んだ重たいそれが悟の鼻腔を微かに掠めた。そろそろ雨が降り出すような気がした。

 悟は無言で首をひねると、空席をひとつ挟んだ向こうに座る硝子の横顔をじっと見つめた。一向に何も言い出そうとしないその蒼い視線を振り払うように、硝子は顔をしかめて露骨な嫌悪感を示した。

「なに」
「硝子さ、強い術師に心当たりない?」
「強い術師?」

 胡乱げに繰り返した硝子の黒瞳が右の空席を撫で付けた。やる気のない視線を悟に戻すや、小さく肩をすくめてみせる。

「何それ。夏油の代わりでも探してんの?」
「そういうんじゃねぇけど」
「ふーん。でも、そういうことなら私より五条のほうが詳しいよね?」

 すると悟は即座にかぶりを振った。

「めぼしい奴がゼロ。歌姫は弱い、冥さんは守銭奴、一年の伊地知は術師向きじゃねぇし、鉄仮面の七海はどっちかっつーと規定側だ。それにアイツ、灰原の件で術師続けるかどうかもよくわかんねぇって話だろ」
「あーそれ聞いた。仕方ないんじゃない?この業界ってほんと葬式ばっかで嫌気差すよ。あ、葬式って言えば今日の通夜どうすんの?行く?」
「そういやさっきメール来てたな……死んだのって補助監督だったか?まぁ術師だとしても行かねーよ。顔も覚えてない人間の葬儀まで行ってられるか。かったりぃ」

 面倒臭そうに吐き捨てるや、不満の色が滲む双眸で古びた黒板をきつく睨み付ける。

「頭が切れて、規定側じゃなくて、一級クラスのそこそこ強い術師、探せばひとりくらいいそうなもんだけど」
「ないものねだりでしょ」
「うっせ。わかってんだよ、んなこと」
「単純に比較対象が悪いだけだと思うけどね。ていうか最初から強い人間を探すから駄目なんだよ。五条が強くすればいいじゃん」
「それはもう考えた」

 投げやり気味のその声音に、硝子は呆れた視線を寄越した。悟が求めているのは即戦力だった。硝子は数秒思考を廻らせると、険しい表情の級友にとって足掛かりになりそうな言葉を投げかける。

「京都校は?」
「論外。交流会だってここんとこずっと東京圧勝だぜ?教師も含めて骨のある奴がいた記憶が全くない。血眼になって探したところで、どうせ硝子のビンタで失神するようなモブ女しかいねーよ」
「……あぁ、

 やや苦い顔に変わった硝子を見つめながら、悟はにやにやと下卑た笑みを浮かべた。

「いや~アレはマジで呪術史に残すべき華麗なビンタだったな。すっげー良い音鳴ったし、脳震盪起こして失神するとかどんだけ本気で打ったんだっていう」
「個人戦始まっていきなり突っ込んできたから、反射的に手が出ただけだよ。もう一年も前の話でしょ。早く忘れてくんない?」

 硝子は不愉快極まりない様子で顔を歪めたが、すぐに何かを思い出したように表情を転じた。細めた明眸の端で、悟の浮ついた横顔を揶揄するように睨め付ける。

「でも五条、“と付き合いたい”って言ってなかった?ぶっ倒れたあの子のこと率先して運んで、わかりやすくポイント稼ごうとしてたしさ」
「……は?何言ってんの?俺は軟弱な硝子の代わりに運んでやったんだよ。嫌々、渋々、仕方なく。つーかそれ、アレだからな?高専の中でどうしても付き合うなら誰かって話だから。消去法だよ、消去法。よく考えてもみろよ?あんな昭和感満載のクソダサい眼鏡掛けてる地味女、どう考えても俺の――」
「あーはいはい」
「聞けよ」

 顔の前で軽く手を振りながら言葉を遮った硝子に、悟は蒼穹の双眸から鋭い眼光を容赦なく放った。しかし硝子は歯牙にも掛けず、開いた窓のほうへ鼻先を向けた。「……傘、持ってくんの忘れた」と独り言ちるその小声に、悟は完全に会話が途切れたことを察する。

 肝心なことを訊きそびれた。好奇心のままに湧いた疑問が肋骨の内側で燻っている。見て見ぬふりもできるし、その気になれば疑問を解決するのも容易いだろう。しかし悟は今ここで答えが欲しかった。

 そっぽを向いた硝子の様子を窺うように、悟はちらちらと視線を送った。どこか芝居じみた所作で後頭部を掻きながら、やがて小さな声を絞り出した。

「……そういや、の等級って何」
「ほら、やっぱ気になってんじゃん」
「お前そのガキみたいなイジり方やめない?」
「自分のこと棚に上げてる自覚ある?」

 間断なく抗弁した硝子は悟を睥睨したものの、話を先に促す蒼い視線に渋々応じることにした。

の等級、たしか四級だよ」
「四級?四級ってほぼパンピーじゃん。なんで高専三年目でその程度なわけ?才能なさすぎだろ。そりゃビンタ一発でぶっ倒れるわな」
「でも重力を操る術式らしいよ。しかも補助監督じゃなくて術師志望」
「それマジで言ってんの?蠅頭しか祓えねぇ四級術師の仕事なんかなくね?」
「別にそれでいいんじゃない?、 “卒業したら平穏に暮らしたい”って言ってたし」
「はぁ?なんだそれ。杜王町の殺人鬼かよ」

 悟が露骨に顔をしかめれば、硝子は不思議そうに首をひねった。

「杜王町の殺人鬼って何?」
「え、漫画読まねぇの?M県S市のベッドタウン杜王町には静かな暮らしを望む殺人鬼が――」

 滔々と紡がれる言葉はしかしそれ以上続かなかった。一片の光も通さない黒いサングラスの向こうで、青よりもなお蒼い碧眼が何度か瞬きを繰り返していた。悟は伏せた上体をゆっくりと持ち上げると、何かを考え込むように顎に右手を添えた。

「……なぁ硝子。さっき、重力を操る術式って言ったか?」
「言った。それがどうかした?」
が術式使ったとこ、見たことは?」
「ないけど」

 間を置くことなく重ねられた質問に硝子は眉をひそめた。悟は胡乱げな硝子の様子など気にも留めず、やや口早な語調で己の疑問を軽薄な声音に乗せていく。

「無重力にして自分の身体を浮かせるとか、硝子に掛かる重力を操作して動きを奪うとか、攻撃手段としても回避手段としても充分使える術式のはずだろ。なんであのとき使わなかった」
「さあ?ていうか、それが本当かどうかも怪しいよ」
「どういうことだよ」
「“法螺吹き”とか“詐欺師”とかって、京都校の奴らからいじめられてたから。本人は濁してたけど、交流会で無策に突っ込んできたのもいじめが原因っぽいよ」
「くっだらねぇ。京都は暇人どもの集まりか?」

 悟が歪んだ表情で悪罵を吐いたそのとき、教室の扉が勢いよく開いた。普段と全く変わらぬ時間に現れた屈強な担任教師を目にするや、悟は蒼い瞳とともに質問の矛先を夜蛾へと転じた。

「先生、って知ってます?」
「……?京都校のか?」

 建て付けの悪い扉を隙間なく閉める夜蛾に、悟は「そうそう」と浮ついた笑みを返した。偉丈夫は教卓を前に立つと、低く硬質な響きで生徒の質問に応じる。

「もちろん知っている。当たり前だろう」
「どんな奴?」
「一言で言えば“お人良し”だな。何故そんなことを訊く」
「いじめられるほど弱いクセに、なんで術師やめねーの?お人好しだから?」

 畳み掛けられた夜蛾は驚いたように片眉を持ち上げた。いじめという単語に反応したのだろう。しかし悟の発言を否定することなく、どこか億劫な口振りで返答を紡いだ。

「……本人はすぐにでも辞めたいようだが、九十九の顔を立てる意味もあるんだろう。は九十九が連れてきた孤児だからな」
「ふーん……九十九……」

 情報を整理するように口の中で繰り返した悟がはっと瞠目した。「九十九?!」と素っ頓狂な声を上げるや、厳めしい夜蛾の顔を食い入るように見つめる。

「九十九って特級の九十九由基だよな?!」
「……あ、ああ。そうだが」

 身を乗り出す勢いで問いかける悟に、夜蛾は面喰らった様子で首肯した。丸いサングラスの向こうで蒼穹の双眸に好奇の光が満ちる。

 机に頬杖を付いた悟はくつくつと喉を鳴らし始めた。硝子と夜蛾が胡乱げに互いの顔を見合わせる。堪え切れずに硝子が「五条?」と眉をひそめれば、形の良い悟の唇が飽食した悪魔めいた邪悪な笑みを結んだ。

「……こりゃマジで杜王町の殺人鬼かもな」



* * *




「姉妹校交流学習制度、ですか?」

 長い黒髪を三つ編みにした少女が静かに問いかければ、窓の外に視線を送る和装の老人は鷹揚に頷いた。窓の向こうは秋の甚雨に白く煙っている。

「京都の生徒が東京校へ、東京の生徒が京都校へ――互いに交流を図ることで、少しでも刺激になればと思っての」
「姉妹校交流会だけじゃ親睦を深めるにはちょっと物足りないでしょ?みたいに不参加が多い生徒にとっては特にね」

 非常勤の女講師が付け加えた補足に、質問を投げかけた少女は縦とも横とも付かぬ曖昧な方向に首を振った。少女のかんばせに浮かぶどこか納得いかないような複雑な表情に、和装の女は同情めいた視線を向けた。しかしそれも瞬く間のことで、女は気を取り直したように声を張った。

「ってことで早速で悪いんだけど、制度の試験的導入として、には来週から東京校に行ってもらうわ。期間は1ヶ月。良いわね?」
「……歌姫先ぱ――歌姫先生、あの、正直四級のわたしなんかより、もっと相応しい生徒がいると思うんですけど……」
「さっきも言ったけど、みたいな生徒にこそ交流学習制度が必要なのよ。東京校の生徒と交流を図ることで、術師として何か新しい発見があるかもしれないでしょ?」
「……でも」

 なお食い下がろうとする少女に、老人が深く窪んだ眼窩を向ける。

「発案者であり制度の導入を推し進める東京校の夜蛾が、どうしてもをと直に指名しておる。のレポートは無駄がなく、読みやすい上に内容も申し分ない。制度導入の可否を判断するためにも、ここはひとつ協力してはくれんかの」

 学長という立場にある老人の発言は、少女の開きかけた唇を縫い付けるには充分だった。少女は視線を落として数秒考え込むと、どこか諦めた様子で伏せた顔を持ち上げた。鼻筋からずり落ちた牛乳瓶のように分厚い眼鏡を両手でぐいと押し上げながら、肩を縮こませて首を小さく上下に振る。

「……わかりました。ご期待に添えるよう、精一杯頑張ります」