間奏 -後-
は祭壇に横たわって眠っていた。儀式が行われていた洞窟の中は真っ暗で、
の他には誰もいなかった。五条が洞窟の灯りを点している間、棘はずっと
を揺さぶり続けたが、
は一向に目を覚まさなかった。
焦りが募っていた。何故人間に戻っていないのか、棘にはさっぱりわからなかった。失敗したとは考えられなかった。
五条の言う通り、
は人間に戻らないことを選択したのだろう。理解できなかった。人間に戻りたいと言ったのは
自身だったはずだ。「人間に戻ったらね」と囁く
の笑顔が脳裏に張り付いていた。棘はおにぎりの具を呟きながら、
を揺さぶった。納得のいく説明を求めるように。
呪いでいることを選んだのなら、
はあの呪いにどんなペナルティを科したというのか。みすみす見逃したというわけではないはずだが。
に限って、それはあり得ないはずだった。
洞窟が橙色の光に包まれた刹那、
の影が大きく蠢いた。規格外の呪力を感知し、ぶわっと鳥肌が立った。棘は後方に跳躍することで素早く身を引いた。冷たい汗が噴き出していた。対して五条は顔色ひとつ変えず、まるで流動体のように形を変え続ける黒い影を静かに見据えていた。
そこからぬっと褐色の手が生えてきたかと思えば、次の瞬間には黒い頭が現われ出でていた。まるでプールの水面から顔を出すように。
「
ちゃんのお願いとはいえ、こんな山奥までやって来るなんて……本当に物好きな人達だこと」
そう言ったのは、息を飲むほど美しい女だった。間違いなく
の“本体”であり、その姿こそ“本物”だった。棘は言葉を失っていた。まさか異国の血が流れた顔立ちをしているとはつゆにも思わなくて。
女は滑らかな動きで影の中から這い出ると、肩から落ちた赤いローブを優雅な動きで羽織り直した。ローブの至るところには宝石が無数に散りばめられており、その下の薄いドレスにも同様の装飾が惜しげもなく施されていた。
五条はにこにこしていた。浮世離れした美貌を持つ女に軽い調子で声をかけた。
「やあ、イザナミ。まさか君がこんなに美人だったとはね」
「あら、ありがとう。でも相手はもう間に合っているの、ごめんなさいね」
女が艶やかな声で言うと、五条はわざとらしく肩をすくめた。女は気にする様子もなく棘に視線を移し、その金色の瞳で鋭く突き刺してきた。
「二度ならず三度も私の邪魔をするなんて。やっぱりあのとき殺しておけばよかったわ」
殺意の矛先を向けられた棘は、強く警戒した。どうして
の体が元に戻っていないのかをどうしても確かめる必要があった。口を開こうとすれば、先に女が長い腕を差し出してきた。棘に何かを要求するように。
「持ってきているんでしょう?
ちゃんの骨」
苛立ち混じりの声音に、棘の肩が跳ねた。見透かされるとは思っていなくて。
「貴方が背負ったそのリュックの中。気配でわかるのよ、さっさと寄越しなさい。今から体を戻すんだから」
棘が五条に視線を送ると、小さな首肯が返ってきた。それは女が下手な真似をすれば、五条がすぐさま動くという合図だった。棘は警戒心を解くことなく、リュックから取り出した木箱を女に恐々と手渡した。
女はたおやかな手つきで木箱を開け、途端に驚きの声を上げた。そこには嘲笑が過分に含まれていた。
「あらあらあらあら……指輪って。指輪って!まさか私の言葉を真に受けたの?!」
「お……おかか」
「本当に貴方、愛が重いわね。呆れを通り越して尊敬するわよ。拍手でもしてあげましょうか?」
「おかかっ」
否定を繰り返したものの、棘の言葉の意味は伝わっていないようだった。穴があれば入りたいほど恥ずかしく、外せばよかったとずいぶん後悔した。
女は木箱を
の胸の上に置くと、自らの人差し指の腹を強く噛んだ。溢れた血を岩でできた祭壇に垂らしながら、流れるような模様を描いていった。
文字のようにも、絵のようにも見えるそれは、間違いなく呪術だった。しかも相当古く、複雑で、吐き気を催すほど禍々しい術だった。ほんの少しでも違えれば、術師本人の命すら危ういほどの。
「宿儺様のあの言葉……私への忠告だったのね。気づかなかった。宿儺様が私に忠告したことなんて、一度もなかったから」
棘には意味がわからなかったが、何かを伝えようとしているわけではないことは理解していた。自らに言い聞かせるような口振りだったから。
途方もない呪術の準備を始めた女の背中に、五条が普段の浮薄な声で言い放った。
「イザナミ。それが終わったら誓約書を書いてもらうよ」
「お前たち呪術師の犬になれって?」
「いいや、違う。それじゃ意味がない。君を縛る人間は
ただ一人だけでなければね」
すると女は五条を振り返って、淫靡な笑みを浮かべた。
「そういうことなら喜んで」
と答えるなり、血に染まった右手を止めた。それから、目蓋を閉じた
に目を落とした。
「呪いも見えず、心配になるくらい弱い子。そして孤独な子。しかも保守的で打算的。博打なんて絶対に打てない性格だと高を括っていたわ」
そこでぷつりと言葉が途切れた。金色の視線は棘をまっすぐ射抜いたが、すぐに柔らかい光を帯びていった。そこには慈愛と呼ぶべき感情が滲んでいた。
「赤の他人である貴方に全てを賭けられるとは思っていなかった。
ちゃんの恋を見くびった私の負けよ」
棘はその言葉で全てを悟った。
が女に科したペナルティを。
が人間に戻る代わりに選択したものを。
から向けられた愛情の確かさを。
心を巣食っていた憂いがみるみる溶け出して、棘の視界を歪ませた。瞬きをすれば感情がこぼれ落ちてしまいそうで、必死に目を開き続けた。
自らの策に棘を巻き込んだのは、
一人ではどうにもできなかったからではなかった。そもそも最初から最後まで一人で事を成したほうが、リスクはずっと少ないはずだ。誰も彼も騙して入念に準備を進めていた
が、ここ数日で棘を引きずり込んだこと、それ自体がおかしなことだったのだ。呪言なしで体の一部を取り戻す方法にも、棘の歪んだ呪いを解く方法にも、
はきっと辿り着いていたに違いなかった。
は愚かな選択をしただけだった。それはきっと、あの雨の日に。
激しく打ちつける雨の中で、
は棘に狂ってしまったのだ。この先の長い人生をイザナミに脅かされ続けることを選んだ。他者に生死を握られることを望んだ。呪言師である棘の隣にいたい、ただその一心で。
だからこそ、棘をこの場に呼んだのだろう。一番近くで見守っていてほしいと嘘を重ねて。
その愚かな選択では帰り道がわからないから。歪んだ呪いで縛られなければ、棘のもとには辿り着けないから。ただ人間に戻るだけなら、今日この場に棘は必要ないはずだった。
「わたしは棘くんを選んだの。棘くんとの未来が欲しかったの」
棘の体の奥深いところで、
の優しい声が響いたような気がした。棘は奥歯をきつく噛んで女を見つめた。涙を堪えながら。どっと温かい感情が溢れ出すのを感じながら。
女は棘の感情を全て見抜いた上で、楽しそうに言った。
「見たくなっちゃった。この子がこれからどんな恋をして、どんな大人になって、どんな生き方をして、そして死んでいくのか」
「おかか」
「あらあら、不満そうな顔。貴方との恋が長続きするかは、まだわからないでしょう?人の心なんてひどく移ろいやすいものだし」
「おかかっ!」
「……ねえ、今のもう一回言って頂戴。まだ何を言ってるのかよくわからないのよ」
ぶすっとした声が返ってきて、棘は少し驚いてしまった。涙がいっぺんに引っこんだ。身振り手振りを交えて同じ単語を繰り返せば、女はようやく理解したらしく深く頷いた。薄っすらと微笑を浮かべていた。
「そう。せいぜい捨てられないよう努力なさいな」
すると、五条が笑みを噛み殺しながら、言葉を差し込んだ。
「君があっさり
に付くとはね」
「呪術界なんて知らない。人間にも、呪霊にだって興味ないわ。宿儺様にもね。私は
の神様で在り続けるだけ。それ以外はどうでもいいの」
「ふうん。ついでにひとつだけ訊きたいことがあるんだ。君が
を呼んだのかい?」
「そうよ。でも連れてきたのは私じゃない」
女はきっぱりと答えると、毅然とした態度で続けた。
「さあ、おしゃべりはお仕舞いよ。気が散るから外へ行って。この領域が消えたとき、この子は人としての肉体を取り戻している。
ちゃんの“神様”として、約束するわ」
棘はてっきり五条が食い下がると思っていたのだが、五条は特に言及することなく洞窟の出入口へと歩いていった。棘もその後を追おうとして、すぐに足を止めた。目障りな二人が、一刻も早く立ち去ることを待ち望んでいる女に視線を送った。
「何?まだ何か用でも?」
問いかけられ、少しだけ迷った。確かめるかどうかを。真実を知るかどうかを。やがて棘は己の疑問を解消することを選んだ。リュックから分厚いクリアファイルを引っぱり出し、該当するページを探し当てた。
いつの間にか女がすぐそばまで歩み寄っていた。敵意は感じられなかった。棘がいったい何をしようとしているのか、純粋な興味を持っているようだった。
棘はそこに並んだ“無科”の名前のひとつを、人差し指で示して見せた。女の瞳が柔和に細められ、赤く彩られた唇から若い男の声がこぼれ落ちた。
「正解だよ、狗巻棘」
は呪いの正体には興味がなかったし、加えて呪いに勘付かれるわけにはいかなかった。だから棘はずっと口を閉ざしていた。呪いの本当の名を。
呪いの“領域”に入ったとき、儀式の中心になっていたのは老婆だった。
も呪いも同じ“無科”の術式を持っていた。壱番目の姿が術者の大切な相手だと言ったのは、他でもないこの呪い自身だった。
両面宿儺に与した“無科”の中で、妻を持ち、尚且つその妻が老婆になるまで生き永らえていた記録が残されていた人間は、たったひとりだけだった。
――無科継夜。かつて“無科”の当主を務めていたその男こそ、イザナミの正体だった。まさか男だとは思っていなかったが。
女はどこか少年らしい笑みを浮かべると、澄んだ声音をひそめた。
「
には絶対言うなよ?
が女神で在ることを望んだからこの姿なんだ。まあ千年も生きていれば性別なんてどうでもよくなるし、それに
の理想の女神を演じるなんて最高に面白そうだろ?現に結構楽しいしさ」
何か言うべきかと思ったが、棘は迷った挙句、口を閉じることを選んだ。秘密を守るという意味を込めて、頭を上下に振るだけに留めておいた。
分厚いクリアファイルを閉じると、姿の見えなくなった五条を追いかけた。しかしすぐに「呪言師」と呼び止められ、棘は女を振り返った。女は棘をじっと見つめていた。
「
ちゃんを守ってあげて頂戴ね」
「しゃけ!」
「いい返事。そうね……貴方なら、
ちゃんとの子供を作ってもいいわよ?乳母は私がやるから任せておきなさいな」
言葉の代わりに怪訝な顔を返すと、女の唇が禍々しく歪んだ。
「宿儺様すら凌駕する最悪の呪詛師にしてやるからさ」
聞こえた男の声に、ぞっとした。本能的に感じた畏怖であり恐怖だった。どれほど神を騙ろうと、その本質が呪いであることに変わりはなかった。
だけの“神様”であり、
だけに味方する存在であることを強く認識した。その点だけは決してはき違えてはならない――そう心に深く刻み込んだ。
棘は最後まで何も答えず、逃げるようにその場から立ち去った。
の領域が消え去ったのは、それから一時間後のことだった。洞窟の出入口まで戻ってきた棘が五条を見上げれば、五条はにやにやと笑っていた。しばらく二人にしてほしいという棘の願いを、手に取るように理解しているようだった。
「存分に文句を言っておいで」
「しゃけ。すじこ」
「言っただろ?僕はイザナミに用があるんだ。だって呪いとはいえ、あんな美人そうそういないよ。スタイルだって最高だし。デートのひとつくらい取り付けないと勿体ないでしょ」
きっと誓約書の話をするのだろうなと思った。
が今後も呪術高専でうまく立ち回っていけるよう、女に助力を求めるのだろう。五条に全て任せておけば心配ないと結論を下すと、棘は大きく頷いて祭壇へと駆け出した。
は仰向けの状態で祭壇に横たわっていた。
の纏う空気に違和感を覚えて、棘は眉をひそめた。妙な感じがしていた。肉体からは呪力がほとんど感じられないし、出会ったときと同様の肉体を得たことに間違いはないだろう。
だが、その身の内には何かが棲んでいるような気がした。繋がれていると言ったほうが正しいかもしれない。
の肋骨のずっと奥から、確かにあの女の気配を感じていた。呪力などはまるで感じられないのに、“そこにいる”と明言できた。とても不思議な感覚だった。まるで
の身に祀られているようだと思った。
の呻き声が聞こえて、棘は「高菜っ」と大きな声を上げた。その声に手を引かれた
は、瞬きを繰り返しながら少しずつ意識を覚醒させていった。
「棘くん?」
愛しい声に紡がれた名に言葉が詰まった。言いたいことは山ほどあった。何故一人で全て決めてしまったのか、事後報告で納得すると思わないでほしい、心配するこっちの身にもなってみろ。様々な感情が渦巻いて、収拾がつかなくなっていた。最後まで棘を謀っていたことを責めたくて仕方がなかった。
だが、それらは今伝えるべき言葉ではないことを理解していた。棘のために愚かな選択をした
に伝えたいのは、もっと温かくて優しい言葉だった。
「こんぶ」
「ただいま」
は柔らかく微笑んだ。そして自らの顔や体をぺたぺたと触った後、天井に左手をかざした。透けていないことを確認するように。「あれ?」と呟く声が聞こえて、棘はしまったと思った。
左の薬指に隙間なく円を描くピンクゴールドの輝きは、
の目を釘づけにさせていた。
「指輪だ。可愛い」
うっとりとした声で言うと、
は慌てふためく棘に視線を移した。食い入るように見つめられ、棘は観念したように肩を下げた。すると
は嬉しそうに笑った。
「これからもお弁当作るね」
「……しゃけ。しゃけっ!」
「ずっと?この指輪ひとつで?……それはちょっと割に合わないなあ」
はいたずらっぽく笑った。その笑顔に目が眩んだ。何があっても一生敵わないと思い知らされるこの笑顔が、これからずっと棘の隣にあるという事実に溺れそうになった。
「他には何をくれるの?」
その拗ねたような口調に胸が詰まった。愛しさで自然と笑みがこぼれた。
――
が望むものを、全て。その気持ちを込めて、棘は
に口付けた。
との関係を明確に縁取っていくように。ようやく輪郭を持った繋がりをより深く感じたくて、顔を綻ばせる
との僅かな隙間を、熱を持った唇で少しずつ埋めていった。
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