現実

 音楽のひとつも聞こえない、やけに静かな店内だった。

 柔らかい照明が降り注ぐその喫茶店はコーヒーがおいしいと地元でも評判だが、入り組んだ路地を進んだ先にあるため辿り着くこと自体が困難であり、ちょっとした穴場となっていた。平日の夕暮れ時ということもあってか、店の客はわたしと狗巻くんの二人だけだった。

 外を見晴らすことのできる大きな出窓に最も近いテーブル席で、わたしたちは向かい合って座っていた。年季の入った焦げた色の革のソファはほどよく沈み、とても座り心地がよかった。

 狗巻くんはビニール製のカバーで覆われた手書きのメニュー表に、無言で目を落としていた。かれこれ五分はそうしている。何を注文すべきかずいぶんと悩んでいる様子だった。

 店の品数自体はそれほど多くないので、優柔不断なのだろうとわたしは考えていた。特に急いでいるわけでもないし、決めかねている姿に苛立ちを覚える質でもない。狗巻くんの手元に置かれたグラスが薄っすら汗をかいているのを、じっと黙って見つめていた。

 狗巻くんが顔を上げてひげ面の店主を見た。視線に気づいた店主がのろのろとやってきた。

「ご注文は?」

 老いた店主が尋ねると、狗巻くんはメニューに並んだ文字を丁寧に指差した。

「ブレンドコーヒーがひとつ。以上で?」

 その問いに狗巻くんが首を横に振った。ブレンドコーヒーのずっと下に書かれていたアールグレイに指を移動させた。それを見た店主は言った。

「変更ね。アールグレイがひとつ」
「おかか」

と、狗巻くんが首を振って否定した。ブレンドコーヒーとアールグレイを順番に指で叩いた後、数字の二を示すように骨張った指を二本立てた。店主が不審な目で彼を見ていた。

「ブレンドコーヒーがひとつ、アールグレイがひとつ……合計おふたつ、以上で?」

 頷こうとした狗巻くんがわたしを一瞥した。わたしは首を大きく横に振ったが、彼はすぐにその目を店主に戻した。それからメニューの一番下の文字に指を置いた。

「季節のケーキも追加ね。以上で?」
「しゃけ」

 砥粉色の頭がこくこくと上下する。わたしは慌てて立ち上がった。

「紅茶とケーキはキャンセルでお願いします」

 しかし店主は狗巻くんに「ちょっと待っててね」とだけ言い残し、店の奥へ消えていった。

 わたしはすとんとソファに腰を下ろした。全身から力が抜けるように。

 尻がソファに深く沈んでから、狗巻くんがあれほど迷っていたのはわたしの好みがわからなかったからだと気づいた。直接訊けば今のように反対されるのが落ちだと考えたのだろう。

 狗巻くんはメニューをテーブルの端に立てかけると、わたしの前に水の入ったグラスとおしぼりを移動させた。この席に座ったとき、店主が出してくれたものだった。

 ひとつずつしかないグラスとおしぼりを押し返そうとすれば、狗巻くんが真剣な顔でこちらを見ていた。わたしは顔の前で両手を激しく振った。

「いいよ。狗巻くんに出してくれたものだし」
「おかか」
「それに紅茶とケーキも。わたしには必要ないのに」
「おかか」
「でも、“呪い”のわたしには」
「おかか」

 否定を繰り返す狗巻くんに、負けを認めるように笑いかけた。顔の筋肉は少しだけ引き攣っていた。店主の不審な目とあの態度が、わたしの内側を激しく引っ掻いているせいで。

「ありがとう」

 言うと、狗巻くんは笑い返してくれた。彼の笑みも、少しだけぎこちなかった。

 一度だけ家に戻りたい――わたしのわがままは意外とすんなり聞き届けられた。

 報告から戻ってくるなり今後の説明をし始めた五条先生をさえぎるように言うと、彼は嫌な顔ひとつせずに深く頷いた。

「うん、いいよ。一応理由だけ訊いておいていい?」
「家から荷物を持ってきたくて」

 わたしがこれから通う東京都立呪術高等専門学校――略して呪術高専――は全寮制だという。実家を離れて暮らすのだから、一人で生活を送るための最低限、例えば普段着や下着類、化粧品なんかがまとめて必要になると考えたからだった。

 ところが五条先生はしきりに首をひねっていた。わたしは眉をひそめた。何か不都合でもあるのだろうかと浮かんだ疑問を口にした。

「駄目ですか?」
「駄目じゃないけど……必要?」
「え?」
「いや、必要性を感じなくてさ」

 意地悪を言っているのかと思ったが、五条先生はいたって真面目な顔だった。わたしはつんのめるように言った。

「でも、着替えとか」
「血染めの着物はお気に召さない?」
「同じ服を何日も着るわけには」
「大丈夫だよ。だってもうは僕たちみたいに臭くならないし」

 五条先生はわたしの言葉を自分の声で塗り潰すと、淡々と言った。

「そもそも“呪い”になった時点で、食事は必要なくなってるんだよ。新陳代謝自体がなくなっているから垢が溜まることもない。つまり排泄や入浴といった人間的営みの大部分から完全に切り離されてるってわけ。いいね、とても楽そうだ」

 わたしは信じられなかった。五条先生が説明したことに対してではない。避けて通れない内容とはいえ、そんなデリケートな話を同年代の異性である狗巻くんの前で平気でされたことが恥ずかしくて堪らなかった。同時に悔しさと腹立たしさも感じた。

 精一杯の抵抗のつもりで鋭く睨みつけたけれど、彼は歯牙にもかけず話を続けた。

「ついでに言うと睡眠不足で死ぬこともないし、の本体である呪いが規格外だから疲労とも無縁だ。が心底羨ましいよ」
「……そうですか」
「何?不満そうだね。生物であることのしがらみから逃れた素晴らしい生活を存分に謳歌すればいいのに。まあそれでも“人間”を続けたいなら、僕は止めないけどさ」

 五条先生はそこで言葉を切って、不思議そうに首をかしげた。

「でも荷物なんてどうやって持ってくるつもり?一人で行ったら空き巣だって勘違いされるよ?」

 今の自分の姿が認識されないことをすっかり忘れていた。母はわたしと同様に“呪い”を見る目など持ち合わせていない人だった。

 五条先生の言う通りならば、荷物など何も必要ないだろう。生活必需品がそもそも存在しないのだから。

 諦めようと思った矢先、わたしの隣で会話に耳を傾けていた狗巻くんが小さく右手を上げた。

「しゃけ」

 わたしと五条先生が狗巻くんを見た。五条先生がにやにやと笑っていた。彼を見つめ返す狗巻くんの眼光は鋭くなり、もう一度「しゃけ!」と声を張った。

 五条先生はちょっと肩をすくめて、やれやれというように首を振った。

「そんなに怒らなくても。棘はとっても友達思いだね。とはいい友達になれるんじゃない?」

 何らかの皮肉が含まれたその言葉は、狗巻くんの神経を存分に逆撫でたらしかった。殺気立った狗巻くんが首元のジッパーを指でつまむと、五条先生は逸るように口を開いた。

「うーん、こうしている時間が惜しいね。事情は僕から連絡しておくから、少し時間をおいた後で家に向かってくれる?」

と言いながら、わたしと狗巻くんの肩を軽く叩いた。

 次の瞬間、わたしたちは寂れた駅の出入口に突っ立っていた。あまりにも見慣れすぎて、もはや飽き飽きしている景色が眼前に広がっていた。そこはわたしの家から最も近い、閑散とした駅だった。

 何が起こったのか微塵も理解できずに口を半開きにしていると、狗巻くんに小さく笑われた。堪えきれないという感じで。さっきまでの凄味が嘘のようだった。きっとあれは五条先生に対するただの脅しだろうけれど。

 まあよくあることだから、とでも言いたげな目で狗巻くんはわたしを慰め、それから駅の壁に備えつけられた周辺地図で何かを探し始めた。五条先生の指示通り、時間を潰すために。

 水滴のついたグラスを手に持ったまま、わたしは狗巻くんを見た。

「本当に見えてないんだね」
「……しゃけ」
「五条先生の話、信じてないわけじゃなかったけど……実際目にすると、ちょっと」
「高菜」
「平気だよ。慣れなくちゃ」

 水に口をつけながら、狗巻くんの後ろに目を送った。アンティーク調の大きな出窓からは向かいの小さな花屋が見えていた。

 色とりどりの花をなぞろうとしたそのとき、わたしは口から水を吹き出しそうになった。寸でのところで耐えきったものの、喉の奥に押し込めた水が気管に入ってしまったらしく、気がつけば激しくむせていた。

 俯きながらグラスを置いて、手探りでおしぼりを掴んだ。ソファの背もたれに深くもたれかかり、おしぼりで口を押さえて何度も咳き込んでいたら、心配して身を乗り出した狗巻くんと目が合った。ひどくむせ込んだせいで涙が出たのか、砥粉色はぼやけていた。

 深呼吸を繰り返しながら体を落ち着けると、わたしは掠れきった声で言った。

「……どうしよう」
「ツナ」
「色々ありすぎて疲れてるのかな……変なものが見える」

 五条先生は疲労とは無縁だと言っていたが、それは嘘だと思った。頭が痛いような気がしてきて、右のこめかみを手で押さえた。

 顔に心配の色が広がったままの狗巻くんが、腰からひねるように後ろを振り返った。彼はすぐに体を戻すと、安心させるように穏やかに笑った。

「こんぶ」
「やっぱりわたしの気のせい?」
「おかか」
「狗巻くんにも見えるの?」
「しゃけ」

 その落ち着いた声に背中を押されるように、わたしは再び窓の外に目をやった。

 花屋の店先に置かれた花の周りを、羽根の生えた青い金魚がぶんぶんと飛び回っていた。

 人の頭よりも大きいその図体にはぎょろっとした目玉が四つも付いていて、大きな目を覆う蓋はなく、完全に剥き出しの状態だった。背びれの位置には蛾のように細かい毛の生えた羽根が三枚ずつ対になって生えているが、その重そうな巨体を支えて飛べるほどの代物には到底見えなかった。いったいどういう原理で飛んでいるのか理解できない。

 わたしの指先から熱が引いていった。自分でも驚くほど怯えきっていた。こちらの視線に気づいたのか、その化け物は四つの目でわたしを捉えた。

 ひっ、と喉が小さく鳴った。背中に怖気が走って、心臓の音が一気に加速した。

 しかし化け物はすぐにどこかへ飛んで行ってしまった。安堵したわたしはゆっくりと息を吐き出して、頭に浮かぶ言葉を恐る恐る声に乗せた。

「もしかして、あれが“呪い”?」
「しゃけ」

 狗巻くんは頷いた後、気遣うような目線をくれた。五条先生は何も言わなかったの?――そう言いたげな目だった。

 答えの代わりに目を伏せると、「明太子」と苛立った声が聞こえた。何の説明もなしにわたしを外へ放り出したことに対して怒りを覚えているらしかった。

 わたしは込み上げる恐怖を押さえつけながら、脳裏であの化け物の姿をなぞった。

「わたしみたいに人の形をしてるものだとばかり思ってた。違うんだね。思ってたよりずっと怖いかも。得体が知れなくて」
「高菜」
「……うん。あれにも慣れなくちゃね」

 店の奥から店主が戻ってきた。手に乗った銀色のトレンチの上から、ブレンドコーヒーとアールグレイと苺のショートケーキが次々にテーブルへと移動する。最後にミルクと砂糖を置くと、店主は「ごゆっくり」と言って立ち去った。

 狗巻くんは自分寄りに置かれたティーカップとケーキを、わたしにそっと差し出した。

「ありがとう」
「おかか」

 そう言ってジッパーを少しだけ降ろすと、彼は何も入れずにコーヒーを口に含んだ。ブラックコーヒーが飲めるなんて大人だなあと感心しつつ、子供舌であるわたしは紅茶にたっぷりの砂糖とミルクを入れてかき混ぜた。

「呪術高専ってどんなところ?楽しい?」

 ふと浮かんだ疑問を投げかけると、狗巻くんが途端に複雑そうな顔をした。どうやら答えに悩んでいるようだった。楽しいと答えるわけにも、楽しくないと答えるわけにもいかない。彼はそんな表情をしたまま、眉間に皺を寄せている。

 はたと気づく。呪術高専は誰かや何かを呪うための術を学ぶ場所だ。楽しいはずがなかった。わたしの質問がいかに不謹慎で空気の読めないものだったのかをやっと思い知り、申し訳ない気持ちが胸いっぱいに広がった。

 濁った紅茶からティースプーンを取り出して、その場で小さく頭を下げた。

「ごめん……わたしの質問が悪かったね」
「おかか!」

 狼狽する狗巻くんにぎこちない笑みを返して、わたしは紅茶を含んだ。ベルガモットの爽やかな香りが鼻から抜けていく。ややあって再び口を開いた。今度は間違えないよう注意を払って。

「同級生は皆優しい?いい人?」
「しゃけ」
「よかった。会えるの、すごく楽しみだなあ」

 わたしがカップから手を離したタイミングで、彼がケーキを小さく指差した。白く滑らかなクリームの上に、宝石のように艶めいた苺が丸々一粒乗っているショートケーキだった。

「ツナマヨ」

 何かを訴えかけるような声音だった。ケーキを見下ろしながら、わたしは尋ねた。

「一口食べる?」
「おかか」
「あ、全部食べたいとか?」
「おかか……こんぶ」

 その後もいくつか単語が続いたものの、いつまで経ってもその意味をうまく汲み取れなかった。

 諦めたように狗巻くんが首を振ったのが悔しくて、わたしは迷った末にフォークでケーキの尖った部分をたっぷり取った。スポンジとスポンジの間には切った苺が挟まれているようだった。左手を受け皿のようにして、狗巻くんにゆっくり差し出した。

 薄茶色の瞳がまん丸に見開かれた。口端に刻まれた刺青のように。

「一口どうぞ」
「おかか」
「どうぞ。遠慮しなくていいよ」
「おかかっ」
「違うの?」

 狗巻くんが頭を上下に何度も振った。首がもげそうだなと思いながら、わたしはケーキを自分の口に放り込んだ。滑らかなクリームが舌の上で溶けていく。その舌触りと広がる甘さに大きく目を瞠った。思わず大きな声で叫んでいた。

「おいしい!」
「こんぶ」
「すっごくおいしい!甘酸っぱい苺と甘さ控えめなクリームとの相性がもう最高!」

 歌うように感想を述べると、狗巻くんは安堵したように息を長く吐き出した。わたしは瞬きをした。その様子はケーキの味を心配していたわけではなさそうだった。

「……わたしの味覚の心配、してくれたの?」

 確認するように問いかければ、狗巻くんの視線はコーヒーカップの上にぽちゃんと落ちた。すぐにカップを手に持って、角度をつけるように少し傾けた。まるで顔を隠そうとでもするみたいに。

 ケーキをまた一口すくって頬張りながら、狗巻くんに目をやる。

 そこまで気を遣うのは彼の性分なのだろうか。やたらと気を回してくれるが、彼が純粋な善意からそうしているようにはとても思えなかった。

 わたしを助けられなかったことに加えて、秘匿死刑を容認してしまった罪悪感が、彼を駆り立てているような気がした。だからこそわたしの意を汲んで“呪い”ではなく“人”として扱ってくれているのだろうし、わたしが人間に戻るための手助けを率先して行ってくれているのだろう。

 テーブルの上に並んだティーカップとケーキに目を移す。

 居心地が悪かった。口の中に苦みが広がっていくようだった。紅茶とケーキの甘味も飛ぶほどに。彼がそうやって気を遣うたびに、迷惑をかけているのだという事実がわたしを圧迫していったから。

 できることなら、誰にも迷惑をかけずに生きていきたいと思っている。

 それが不可能であることはもちろん理解していたが、納得はしていなかった。とはいえ人は一人では生きていけないから、不可能が可能になるわけもなかった。けれども不可能が最低限になるくらいには努力をしようと考えていた。

 自分でできることは自分でこなし、周囲には最低限の助力だけを求めてきた。幼い頃からずっと。

 しかしこの現状はどうだ。わたしは狗巻くんに気を遣わせて迷惑になる一方だった。

 彼が罪悪感を抱き続ける限り、これからもきっとそうだろう。だからといって「ありがた迷惑だからやめてくれ」などと言って彼の厚意を無下にするなんて失礼だし、この際だから「狗巻くん、わかんなーい」などと上目遣いで存分に甘えてやろうという狡賢さを見せられる性格でもない。

 となれば、わたしがこの気持ちに折り合いをつける他なかった。

 引け目を感じずにいられる方法をしばらく考えた。狗巻くんに迷惑をかけた分を帳消しにできる方法は今はこれしかないだろう、そう結論を出してフォークを強く掴んだ。

 ケーキを一口大に切り分けて、再び彼に突き出した。

「どうぞ」

 腹を据えて言うと、狗巻くんが面食らった顔をした。それから首を横に振った。想定内の反応だったから動じることはなかった。わたしは一歩も退かずにフォークをさらに近づけた。

「わたしだけで食べるのが勿体ないくらいおいしいの。だから」
「おかか」
「狗巻くんにも絶対に食べてほしくて」

 もはや意地だった。フォークに乗っかった苺のショートケーキ、それが今のわたしに差し出せる唯一の物だったから。

 甘い物が嫌いかもしれない。逆にこちらが迷惑になるかもしれない。そういう考えがまったく浮かばなかったわけではない。

 けれども“呪い”になってしまったわたしには、そもそもできることが限られている。これを逃せば次の機会などしばらく訪れないかもしれないのだ。導き出したこの答えを疑っている時間が惜しかった。

 狗巻くんが頭をすっと後ろに引いた。拒絶の態度に心がちくりと痛んだが、それでも諦めきれなかった。迷惑になっている自分を許容することは不可能だった。テーブルから大きく身を乗り出して、わたしは彼のきつく結われた口元までケーキを運んでいった。

「はい、あーん」

 言いながら、わたしも口を開けた。まるで子供に食べさせるかのように。

 狗巻くんは目を白黒させていた。この執拗な行動の正当性に若干の疑問を抱きそうになりつつも、わたしは必死に目で訴え続けた。無言の攻防戦が一分ほど繰り広げられ、とうとう音を上げたのは狗巻くんのほうだった。

 完全に負けを認めた様子で、狗巻くんがぱっくりと開口した。どういうわけか目もきつく閉じていたから、そこまで嫌なのであればもっと別の方法を考えるべきだったと後悔した。

 しかしここまで来てしまったのだ、さすがにもう引き返せないだろう。

 狗巻くんの赤い舌の上には丸い紋様が見えていた。口端に浮かぶ目玉のような刺青とは異なる紋様だった。円の中に線が横に何本も並んでいた。

 どことなく歯のようだなと思いながらケーキを舌の上に乗せると、薄い唇が隙間なく閉じた。するりとフォークを抜き取りながら、わたしは首を傾げた。

「おいしい?」

 砥粉色の頭が小さく縦に揺れたものの、垂れ下がった前髪のせいでどんな顔をしているのかまではよくわからなかった。

 やっと気持ちに折り合いがついたことで満足したわたしは、残りのケーキをぺろりと平らげ紅茶を一滴残らず飲み干し、そうしてソファから悠然と立ち上がった。

 わたしの顔から血の気が引いたのは、店主がレジを打ち始めたときだった。

 現金どころかモバイル決済可能なスマホや現金がチャージされた定期券すら持っていなかったことを、わたしはすっかり忘れていた。

 それら全てが詰まったリュックを奪ったと思しき張本人はすぐ足元にいるが、何度呼びかけても無反応だったため当てにはならなかった。

 結局わたしは喫茶店の代金を払うことができず、狗巻くんにご馳走してもらう羽目になった。顔には出さないように取り繕ったものの、多大な迷惑をかけてしまったそのショックは計り知れなかった。かなり落ち込んだし、泣き出したくなった。

 狗巻くんに何度もお礼を言いながら、自宅までの道案内を行った。

「いつか絶対にお返しさせてね」

 わたしが頼み込むと、狗巻くんは無言で首を横に振った。「でも」と言っても彼は否定を続けた。言葉にはまったく出さないで。

 喫茶店を出てからというもの、狗巻くんの口数は激減していた。頭は縦に揺れたり揺れなかったりで、わたしはずっと一人でしゃべっていた。たいして面白くもない地元の話を延々と続けた。

 独り言を話し続けるただの不審者になっていたが、幸いというべきか“呪い”になっているため誰にも視認されていなかった。“呪い”になって初めて、“呪い”でよかったと心から思った瞬間だった。

 狗巻くんが赤べこになってしまった理由をぐるぐると考えた。

 原因があのケーキにあるのは明白だった。甘い物が嫌いだったのだろうか。わたしの執拗さに幻滅したのだろうか。それとも奢らされたことに腹を立てているのだろうか。

 狗巻くんの感情さえわかればどの憶測が正しいのかも判断できるだろうが、彼はずっと制服に顔を埋めているからその表情が窺い知れなかった。

「狗巻くん」と呼ぶと、狗巻くんがわたしをちらっと視線を寄越した。しかし目はあちらこちらを泳いだ後、すいっと逸らされてしまった。

 わたしは下唇を噛んだ。やはりあれは彼の迷惑になるようなことだったのだ。

「ケーキ、無理矢理食べさせてごめんね。嫌がってたのに……」

 何度だって謝罪をするつもりだった。“呪い”になったわたしは狗巻くんがいなければ荷物のひとつだって家から持ち出せない。彼の機嫌をこれ以上損ねるような真似は絶対に慎まなくてはならなかった。

 けれども狗巻くんは何も言わなかった。かすかに頭が揺れたものの、縦なのか横なのか非常に判断が難しかった。だからといって追及するのも不躾な気がして、「本当にごめんなさい」とだけ言って、唇を横一文字にきつく結んだ。

 わたしたちはお互い沈黙を貫いたまま、家に向かって歩き続けた。


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