あなただけの寄る辺

の我儘、怒らなかったの?」
「彼女が子どものお願いに弱いのはいつものことですから」

 伊地知潔高の自宅で催された打ち合わせを終えた七海建人は、同席していた五条悟とともにリビングで茶請けに手を伸ばしていた。

 七海の視線の先、リビングの大きな窓の向こう、物がほとんどないベランダに華奢な背中が映える。柵にもたれ掛かって伊地知と話す女の顔には、絶えることなく笑顔が咲き乱れる。「伊地知くんは今からわたしの貸切です」と告げてすでに十分以上が経過していた。何を話しているのか定かではないが、きっと七海にも五条にも言えないような下らない話をしているのだろう。

 五条は茶請けのクッキーを頬張りながら、女のほうへ鼻先を向ける。

「“夏油くんの思想に異論を唱えるつもりはない。でもそのせいで子どもが泣いてるなら全力で潰す”――だってさ。はいつでも子どもの味方、最高のヒーローだよね。僕には眩しすぎるくらいだ」
「そうですね。ですが彼女はその思想に賛成する子どもがいた場合のことを考えてはいません。彼のもとに呪詛師が集うのは、少なからず彼の思想に賛同した人間、もしくは救われた人間がいるからでしょう」
、迷うかな」
「一瞬も迷わないでしょうね。ヒーローは見境なく子どもを助けますから」

 きっぱりとした言葉を返すと、七海は小さく息を吐いた。

「だからこそ危うい」
「危ういって?」
「その眩しさを妬み恨む人間が必ず生まれるという意味で危ういんですよ」

 重い声音を押し出した後輩に対し、五条は口端に刻んだ軽薄な笑みを深める。

「支えてやってよ」
「わかっています。彼女を支えられなかったあなたに言われなくても」

 抑揚のない響きにたっぷりと嫌味を混ぜ込んでやれば、“最強”の名を欲しいままにする眼前の男の表情が心底嫌そうなそれに変わった。

「いつも思うけどそのマウントの取り方マジでウザい」
「そうですか。それはすみません」
「絶対思ってないだろ」
「ええ、1ミリも思っていませんね」

 七海は冷めた口振りで一蹴すると、何かを迷ったように五条を一瞥した。視線が絡むより早く鼻先を逸らし、再び視界の中心に女の笑みを挿げる。

「五条さん。ひとつ言い忘れていたことが」
「何」
「私、彼女と結婚します」

 ひどく楽しげな女の笑い声が七海の耳朶を打つ。たったそれだけで柔らかな感情が身体の内側を占める。七海が目線を正面に戻せば、あの五条にしては珍しく、口をポカンと開けて硬直していた。

「……は?……はぁ?!それマジで言ってる?!」
「マジです。クリスマスに籍を入れます」
「嘘だろオイ。から何も聞いてないんだけど。一昨日昼飯行ったときも何も言わなかったし、“七海とはどう?”って訊いたときも“別に普通だよ”って……アイツ」
「それはそうでしょう。さん、五条さんのことはただの同僚としか思っていませんからね。年明けに引っ越しも決まりましたので、お祝儀は弾んで頂けると大変有難いのですが。そうですね、ざっと百万くらい包んで頂ければさんも喜ぶと思いますよ」
「いきなり図々しいなオイ」
「それから、そういうわけですので、今までのように“あわよくば”などと考えるのはもう無駄です。さっさと諦めてください」
「わかってるって。おめでとう、幸せになれよ」
「ありがとうございます。もう充分幸せですよ」

 砂糖を塗した台詞に五条はうんざりを肩をすくめると、ベランダへと焦点を合わせる。ふたりの視線に気づいた女がにこやかに手を振っていた。何の反応も返さない七海に代わって、五条が小さく手を振り返した。

「七海。結婚祝いにひとつ教えてあげる」
「何をですか」
「ずっと知りたがってたでしょ?僕がに振られた理由」

 それは七海が最も知りたかったことだった。女は七海に対して五条との関係について決して詳細を明かそうとしなかったし、それは五条もほとんど似たようなものだった。

 七海が知っているのはただ過去にふたりが付き合っていて、結婚の話を機に別れたということだけだった。別れた理由を知りたいというより、何故という女が七海を選んだのか、七海でなければならなかったのか、その決定打が知りたかったのだ。

 さも興味がないような素振りで七海が五条に向き直れば、抑揚に欠けた言葉が鼓膜を震わせた。

「“あなたはわたしの帰る場所じゃない”」
「……帰る場所?」
が本当に欲しかったのは“恋人”じゃなくて“家族”だった。家族の愛情に飢えて育ったの心を僕はわかった気になって、それで……すぐ駄目になった」

 五条はそこで言葉を切った。気まずさを誤魔化すようにクッキーに指を伸ばそうとして、しかし思い直したように宙で手を止める。黒い目隠しの向こうで群青の双眸がたしかに七海を射抜いていた。

「お前はにとって帰る場所なんだよ」

 七海はベランダを見つめた。傾き始めた日が女を朱に染めている。やっとにとっての唯一になれたような気がした。「行くところがあるので帰ります」と立ち上がった七海に、五条は何も言わなかった。ただクッキーを頬張る乾いた音だけが、しんとした部屋に小さく響いていた。

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