臆病者は欺けない

 眠気を含んだ目蓋を持ち上げれば、清潔な白い天井灯が瞳に刺さる。七海は徐々に霞んでいく映像を思い起こしながら、小さな声で呟いた。

「……ゆ、め」
「どんな夢?」

 間断なく耳を打った声音のほうへ視線を動かす。七海の白いTシャツを身に付けた女が、子どものような茶目っぽい笑顔でこちらを見下ろしていた。

「おはよう、七海くん」

 上体を持ち上げてベッドから起き上がった七海は、女から差し出された淹れたてのコーヒーを口に含む。昨夜は意識を失うように眠りに落ちたことを思い出すや、女を気遣う優しげな視線を送った。

「おはようございます。身体は大丈夫ですか?」
「もちろん平気だよ。反転術式でズルしたけどね」

 ちろりと悪戯っぽく赤い舌を出した女を見つめたまま、七海は普段と変わらぬ抑揚に欠けた口調で続ける。

「後ろ向いてください」
「え?……こう?」

 特に疑う様子もなく、七海の言われた通りにする女のTシャツの裾を掴む。背中が見えるほどたくし上げてみせれば、「だっ駄目だよ、もうしないよ」と女は何を勘違いしているのか早口で言葉を紡ぐ。七海はその様子に噴き出しそうになりながら、白い柔肌を上から下までさらりと目でなぞった。

「今日も全て消えていますね」
「えっ、嘘。痕、付けてたの?今までずっと?」
「貴女が反転術式で治すだろうとわかっている日だけですが」
「全然気づかなかった……交際三年目の真実……」

 七海が情事の痕を残すのは、女が快楽に負けてどろどろに溶けてしまった日だけだった。一社会人、それも教師という女の立場を考えれば身勝手な真似は出来ない。「もったいないことしちゃったな」と女は少し不満げに唇を尖らせたあと、「起きてからずっと考えてたんだけどね」と思い出したように話題を切り替えた。

「七海になるなら、七海くんを七海くんって呼ぶのは変だよね」
「……はい?」
「建人くん」

 瞬きをする間もなく、名前で呼ばれた。付き合い始めて七海が女の呼称をそれとなく変えたときも、女は「わたしは七海くんって呼ぶね」と名字で呼ぶことに拘っていた。心情の変化に至った理由は理解できるものの、七海の心の準備は全くできていなかった。

「建人くん」
「……な、んですか。さん」

 七海が切れ切れに答えれば、女はひどく楽しげに肩を揺らした。

「あ、照れてる。建人くん照れてる、可愛い」
「やめてください。こんな図体の男に使うような形容詞ではないでしょう」
「建人くんは可愛いよ。最高に格好良くて最高に可愛い。わたし大好きだよ、世界で一番好き。愛してる」
「……もうわかりましたから、少し黙ってください」

 惜しげもなく愛の言葉を囁く女から逃げるように、七海はベッドから立ち上がる。顔に熱が集まっているのが嫌と言うほどわかる。普段から過分なほど愛を紡ぐ女は、背を向けた七海の手首をそっと掴んだ。七海は上体を腰からひねると、ベッドに座ったままの女を見下ろした。

「どうかしましたか」
「わたしの可愛い建人くん」
「まだ言うんですか、それ」
「婚約指輪、くれないの?」

 小さく首を傾げた女をしばし見つめ、七海は頭の中で今日の予定をなぞっていく。女が保護した子どもに会った後は、五条や伊地知を交えて当日の打ち合わせだ。それからの予定は全くの空白になっている。

「そうですね。夕方、百貨店にでも見に行きましょう」

 淡々と提案した七海に対し、女は無邪気な笑みを向ける。咄嗟に嫌な予感を覚えた七海の耳に、信じられない言葉が飛び込んでくる。

「クローゼット上段、左端の一番奥。黒色の小さなマルチボックスケース」
「……は?」
「もう二年もクローゼットの肥やしになってるよ?」

 開いた口が塞がらないとはこのことを言うのだろう。あまりにも驚きすぎて、もはや感情が根こそぎ奪われたようだった。女は唖然とする七海をにこにこ見つめている。血の気の失せた七海が動揺で掠れ切った声を押し出すまでに、たっぷり三十秒は要してしまった。

「……どうして、それを」
「建人くんと初めてお泊りした夜、寝てるわたしの指のサイズ測ってたから」

 こともなげに答えてみせると、女は「ここに初めてお邪魔したときにはまだなかったよ。その次の次かな」と訊いてもいないのに時期まで的中させた。七海は目の前が真っ暗になりそうだった。

「……見たんですか」
「ううん、見てない。でも、形はなんとなくわかるかな。水が流れるようなデザインで、きらきらで大きな宝石がひとつ乗っていて、その脇に小さいのがひとつずつ埋め込まれてるの。当たりでしょ?」
「……どうして術式を使ったんですか」
「空間認識は無意識だよ。あらかじめ危険を把握しておくのは生き物としての真っ当な生存本能ですから」

 教師らしい口振りで告げた女から目を逸らし、七海は苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。まさか恋人である七海の部屋でも術式を使用しているとは思わなかった。女の全てを暴くために部屋に招いたという意味ではたしかに七海は危険かもしれないが、そうだとしても予想外である。千里眼より遥かに厄介な呪術を用いる女の前で何かを隠そうと思ったのが、そもそもの間違いだったのだろう。

「アレは……アレは黒歴史です。あんなもの今さら、もう渡せません。忘れてください」

 顔を背けた七海がつっかえながら言えば、女は何度もかぶりを振った。

「やだ。わたし、他の指輪なんて欲しくないよ。だってとっても高い物でしょう?本気でわたしと結婚するつもりで付き合ってるんだって、生半可な気持ちじゃないんだって、本当に嬉しかったんだよ?」
さんが好むようなデザインでは――」
「いつ渡されてもいいように、ずっと体型維持してたのに……薬指だけは太ったり痩せたりしないように頑張ってたのに……」

 深く項垂れてあからさまに落ち込んでみせる女に、七海はぐっと息が詰まった。あの指輪は、念願叶って女と交際できたことにひとり舞い上がり、その場のノリと勢いで買ってしまった恥ずかしい代物だ。クローゼットの奥に二年間も封じ込めていた物を今さら日の目に晒すなど、ひどい自己嫌悪に陥るには充分すぎるだろう。それでも。

 七海は女の悲しげな表情を見つめたまま、観念するように口を開いた。

「……わかりました。お渡しします。ですがこの状況では締まらないので、日を改めていただいても?」

 その言葉に女はしばらく目を瞬き、そして勢いよく噴き出した。七海が起き抜けの下着姿だということをようやく理解したらしい。女はひとしきり笑ったあと、涙を拭いながら問いかけた。

「二年悩んだ理由、訊いてもいい?」
「……たいした理由ではないので」
「えっと……わたしのせい?」
「違います。それだけは断じて違います。誤解しないでください」

 決して安くない婚約指輪を買っておいて、そのくせずっと仕舞い込んでいた理由など、たったひとつしかあるまい。

「貴女が笑って頷くイメージが出来なかった。フラれる想像は簡単に出来ても、それだけはどうしても無理だった。貴女が自分のような男と結婚してくれるとは思えなかったんですよ」
「どうして?」

 不思議そうに首を傾げられたものの、七海はすぐに答えを返せなかった。

 あの五条悟を平然と袖にした女だからだ――とは口が裂けても言えない。五条悟は自他共に認める“最強”、家柄も良ければ顔もスタイルも良い。金にも全く困っていない。性格に難のある五条より多少マシな自覚はあるとはいえ、七海自身、自らの性格が良いとは微塵も思っていない。むしろ性格は悪いほうだと思っている。

 となれば、七海も五条と同様に選ばれないと思うのは無理もないだろう。

「貴女は自分が思っている以上に魅力的ですよ」

 やや間を置いて七海がそう言えば、女は七海の手首をようやく解放した。跳ねるように立ち上がって、背の高い七海をじっと見上げる。

「わたしのせいだって、生い立ちのせいだって言われるほうがまだマシだった」
「……さん?」
「建人くん、帰りに百貨店寄って。えっちな下着買いたい」

 突飛な発言に驚くよりも、女の双眸に滲む怒りに息を呑んだ。おそらく愛情を疑ったのだと受け取られたのだろう。常日頃から七海への愛の言葉を尽くしている女からすれば、七海の尻込みは容易に許せるものではないはずだ。

 女は眩暈がするほど柔和な笑みを口端に刻む。

「今夜は寝かさないから、そのつもりで」


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