07

 さも当然というような口振りに、はっと我に返った二人が揃って口を開いた。

「はァ?!信じらんない!普通そんなことする?!」
、選ぶなら人も物も大事にする男にしたほうがいいよ。家庭内暴力に発展しかねないからね」
「そーだそーだ!DV男になるぞ!」

 途切れることのない非難の声などどこ吹く風で、死んだ魚のような双眸は赤い婚約指輪をじっと見つめている。文句を言うだけ無駄だと察した傑くんが首をひねった。

「で、結局真人は誰のプロポーズを選ぶつもり?」
「そりゃに決まってんだろ」
「私情が入ってるのは真人のほうじゃないのかな?」
「違いますぅ。のプロポーズに一番グッと来たんだよ。そもそも女の誘いを断るなんて男じゃないと思うけど?」
「誘ってない」

 ぴしゃりと言い放ちつつ婚約指輪を手渡すと、「照れちゃって」と揶揄されたので無視しておいた。わたしのプロポーズの話はもういいだろう。話題を変えるためにもゲームを進めることにした。

「今度はわたしが“親”だよ」
はちゃんと公平な目で決めてね」
「うん」

 傑くんの言葉に頷いて、三人が山札からカードを引くのを見届ける。顔が隠れるほど深く伏せながら、ゆっくりと時間を数えていった。

 長いような短いような制限時間が終了する。顔を持ち上げれば、和やかだった先ほどとは打って変わって張り詰めた空気が充満している。

 傑くんも真人くんも笑っているし、脹相くんは相変わらず無表情な顔だ。だが纏う空気は限りなく殺気に近かった。あまりの変貌ぶりに動揺を隠せず、緊迫した様子にわたしは唾を飲み込んだ。

「感想は後にして一気に行こうか」
「異論はない」
「俺も賛成。今回だけは負けられないからね」
「じゃあ、私が一番手を務めようかな」

 言うなり、三人は揃って木目の浅いテーブルの上に手札を広げた。目をやる前に、傑くんがテーブルを自らのほうへ引き寄せてしまう。それを移動させたことで、わたしの足元には空間が生まれていた。

 媚笑を浮かべた傑くんが、ソファに座るわたしの前で恭しく片膝をついた。阿るように視線を上げながら、優美な所作で婚約指輪を差し出す。

「“僕の家族になってほしい。絶対幸せにするよ”。、私と結婚してくれないか?」

 笑んだ瞳の奥には真剣な色が滲んでいる。ふざけた様子のないそれに目を瞬かせていたとき、突然背中に重みを感じた。誰かが背後から首に抱きついているようだった。

 首を左にひねると、茶目っぽい笑みを刻んだ真人くんの顔が目と鼻の先にある。思わず頭を後ろに引いた。三日月の形に歪んだ唇の前では、黒い石の付いた婚約指輪が白い光を反射している。

「“今すぐ君の全部を奪いたい。誰にも邪魔はさせない”。だから、俺と結婚しようよ」

 普段とは全く違う、真摯な響きを孕んだその声音に耳を疑った。

 わたしの視線は傑くんと真人くんの間を行ったり来たりする。あまりのことに頭がついていかない。ただ身体はひどい熱を持って、心拍数が上昇していた。悪戯が過ぎるのではないだろうか。

 不意打ちに目を白黒させていると、急に右手首を引かれた。ふらつく視線を寄越せば、深い夜を縁取る双眸がまっすぐわたしを見据えている。夜の向こうには疼くような熱が走っていた。

 動揺した心の隙を突くように、視線ひとつでいとも容易く動きを封じられ、もはや抵抗など不可能だった。脹相くんは目を合わせたまま、わたしの手のひらを天井に向ける。上体を丸めるようにして、力なく開いたそこに怜悧な顔を近づけていく。

 手のひらの中心に、脹相くんが口付けを落とす。ゆっくりと、唇で感触を確かめるように。

 キスをする場所には意味がある――そう教えてくれたのは由基ちゃんだった。たしか、オーストリアの劇詩人の作品の台詞に由来すると言っていたはずだ。熱を持った頭で懸命に記憶を手繰り寄せる。

 手の上なら尊敬のキス。手のひらの上なら――懇願のキス。

「“君は僕の運命。死んでも一緒だ”」

 手のひらから離れた形のいい唇が一途に思慕を囁く。瞬きひとつできなかった。

「俺と結婚するだろう?」

 無機的なその声を、わたしはまた優しいと感じていた。黒を溶かしてなお昏い瞳から一向に目を逸らせない。制御できない感情は涙となって、視界の解像度をみるみる落としていく。泣いてしまいそうになるのを目蓋を見開いて堪える。

 どんな理由があれ、わたしは加茂憲倫から譲り受けた呪胎九相図を、脹相くんたちを一度は手放してしまったのだ。そんなわたしに向けられるべき言葉ではなかった。ひと時の遊びだとしても、わたしの感情を揺さぶるには充分だった。

「か、カレー見てくる!」

 絞り出すように告げると、脹相くんを振り払い、真人くんから逃れ、傑くんを押し退けるようにして自宅へと駆け込んだ。灯りの点いていない廊下は真っ暗だった。勢いよく扉を閉めて、背中で押さえ付ける。

「カレーじゃないのかよ!」と扉越しに非難がましい声が聞こえきたが、そちらに思考を割く余裕はどこにもなかった。膝からその場に崩れ落ちると、激しい動悸をなんとか押さえ付けようと試みる。

 動揺の残る右の手のひらを開いた。暗闇の中でも小刻みに痙攣するそれだけは明瞭に見えていた。口付けの感触を思い出しながら、右手を抱き締めるように身体を小さく丸める。嗚咽が漏れるまで、そう時間はかからなかった。



* * *




 気の済むまで存分に泣いたわたしが執務スペースに戻ってくると、テーブルの上のボードゲームは人生ゲームに様変わりしていた。泣き腫らして真っ赤になった瞳を見た真人くんは、「ウサギそっくりじゃん。超可愛いよ」と茶目っ気たっぷりに笑った。

 カレー鍋を猫又のような低級呪霊に任せ、わたしは人生ゲームに興じる三人組に声をかけた。

「カレーの前にコンビニ行ってくる」
「何買うの?」
「お酒。飲みたい気分だから」

 少し硬度を増した声で答えると、真人くんが不思議そうな顔をする。

「日本酒は?ほら、五条悟から貰ったとか言ってたやつ。北海道の土産だっけ?」
「あれは傑くんが全部飲んじゃった」

 傑くんはうわばみと呼んでも差し支えないほどアルコールに強い。他人の土産を勝手に飲み干した酒豪は詫びる様子もなく、穏やかな笑みと共に軽く右手を挙げてみせた。

「ついでに私の分もお願いしていいかな?」
「うん。何がいい?」
「任せるよ。の晩酌に付き合いたいだけだから」
「ありがとう」

 雨を含んだままのショルダーバッグから財布を取り出していると、

「ちょっと待って。もしかして一人で行くつもり?ボディガード連れてけよ」

 顔をしかめた真人くんが、脹相くんを示すように顎をしゃくる。先ほどの口付けと思慕の言葉が頭を掠め、わたしは右手を強く握り締めた。未だに尾を引いている動揺は皮膚の下に押し込めて、笑顔でかぶりを振る。

「大丈夫だよ」
「ここの治安の悪さを忘れたわけじゃないだろう?女の子の一人歩きは感心できないね」

 窘めるような響きに肩をすくめる。「本当に大丈夫だから」と傑くんに手を振って、わたしは赤いセパレートパンプスを引っかけながら事務所を出た。エレベーターの前でパンプスのストラップを留めていると、背後から扉の開閉音が聞こえてきた。

 静寂を裂くようなそれにある種の予感を感じる。まさかと反射的に振り返れば、和服に身を包んだ脹相くんが真後ろに立っていた。

「ひ、一人で大丈夫だよ」
「そうか」

 短い返答を口にした端正な顔には一切の感情が浮かばない。きっとあの二人にけしかけられてきたのだろう。目的地のコンビニは事務所からさほど遠くないし、何より今は独りになりたい気分だというのに。

 気まずさを覚えたときには、すでにエレベーターの扉が開いていた。わたしに続くように、脹相くんが乗り込んだ。もしやコンビニまでついてくる気だろうか。少しでも優しくされると、自分の弱さが全て露呈しそうだった。

 陰鬱な感情が噴き出すのを感覚しながら、無言で閉ボタンを押す。無機質な扉が閉まると同時に、揺るぎない冷淡な声が金属製の箱に響き渡った。

「まだ返事を聞いていない」

 一階のボタンを押そうとした指が止まる。

「……返事?」
「真に受けろと言ったはずだが」

 記憶を遡るまでもなかった。一瞬で息が詰まる。軽く顎を持ち上げると、光を通さないほど濁った瞳がわたしを真正面から見据えている。

 エレベーターの冷たい壁に背を預けて距離を取ろうとしたものの、脹相くんはわたしの顔の真横に手をついた。上体を僅かに屈めて、呼吸を忘れたわたしに怜悧な顔を近づける。逃げ場はどこにもなかった。

「聞かせろ。今ここで」