05

「ねぇ真人くん」
「んー?」
「脹相くんにドライヤーの場所教えてあげなかったの?」
「だってそこまで言われてないし」

 他人に話しかけられているというのに、真人くんは無礼にも分厚い文庫本に目を落としたままだった。傑くんから借りたらしいそれは有名な推理小説らしく、色違いの双眸にはひどく真剣な色が浮かんでいる。

 わたしは死人のように青ざめた手から文庫本を没収する。非難がましく持ち上がった相手の視線は無視して、ソファに腰掛ける脹相くんに向かって小さく顎をしゃくってみせた。その黒髪は驟雨に打たれたときと変わらず、ぐっしょりと水気を含んでいる。

「なんで俺なの?自分で言えばいいだろ。花御の応援を無下にするつもり?」
「だって」

 その先は一向に言葉にならず、こちらを睨めつける真人くんから目を逸らした。執務スペースに配置された四つの一人用ソファの間隔は、さほど広くない。ここで理由を話せば否応なく、真人くんの左隣で新書に没入にしている脹相くんの耳にも入ってしまうだろう。

「ああもう、仕方ないなぁ」

 呆れた様子で肩をすくめると、継ぎ接ぎだらけの顔は瞬く間に悪戯っぽいそれへと変貌する。青白い人差し指で、読書に耽る脹相くんの撫で肩を何度もつついた。

 濡れすぼった黒い頭がゆっくりと上がるや否や、死魚のような瞳が無言で真人くんを深く貫いた。日本近現代史の振り返りを邪魔をされたことが、よほど気に喰わないのだろう。

が脹相に話があるんだって。ちょっと聞いてあげて」
「えっ」

 予想外の言葉にわたしの肩が大きく跳ねる。苛立ちの矛先がわたしに移ることを覚悟したのに、暮夜の双眸は何故か一瞬で凪いでいた。感情の欠けた漆黒の中にはポカンとなったわたしが映っている。

 わたしの全てを絡め取られてしまう前に、灼けるような熱を帯びた顔をじっと伏せた。脹相くんの手元だけが見えている。腹から捻じるように声を絞り出した。

「あの……ドライヤー使わないの?」

 たったそれだけで息が詰まりそうだった。両手を拳にして、ぎゅっと強く力を込める。爪が深く食い込むほどに。

「かっ髪を乾かす機械で……その、すぐ乾くからとても便利で」
「勝手に乾く」
「……そ、そっか」

 小声で納得すると、“そこで退くなよ!”と真人くんが声を出さず唇だけを動かした。まるで野良猫でも追い払うように、左手を軽く振り動かしながら。

 口角を下げたわたしはかぶりを振って限界を訴える。しつこい女だと思われるのは嫌だった。だが険しい顔の真人くんは“とにかく行けってば!”と急かし続ける。嫌われたら責任を取ってくれるわけでもあるまい、そんなことなどできるものか。

 臆病な踵が後退のために床から離れたとき、骨張った大きな手が新書を閉じたのが見えた。乾いた音が耳を打つ。わたしの垂れ下がった頭頂辺りに、深い夜に似た視線を感じる。



 名を呼ばれた躯体が一瞬で強張る。だがその響きに感情の起伏はない。夜に沈んだ海のように静かに凪いでいる。

 花御くんとの会話を思い出していた。まさか、わたしの言葉を待ってくれているのだろうか。脹相くんが名を呼んだその先を紡ぐような気配はない。芽吹いた疑問を肥大化させるには充分だった。

 自惚れかもしれないという疑念を拭えないまま脹相くんに目をやれば、光らない双眸がわたしを射抜いていた。一寸も揺れることのない視線に息が詰まりそうになる。

 言葉を促されているのだと悟ったのは、重い沈黙に耐えられなくなったときだった。

「えっと……脹相くん」
「なんだ」
「必要ないかもしれない、けど……ドライヤーの場所と使い方だけ、教えてもいい?」
「ああ」

 無機的な短い返答が心拍数を上昇させる。立ち上がった脹相くんが読みかけの新書をソファに置いたことを見届けると、わたしは緩慢な足取りで洗面所に移動した。茶目っ気たっぷりにウインクした真人くんと軽く拳をぶつけ合って、勇気を分けてもらいながら。

 脱衣所も兼ねた洗面所は、大人が横並びになれないほど窮屈だった。ただの事務所を強引に居住空間へと改造したのが原因だろう。隣接するシャワー室は洗面所よりも狭く、身を温めるための湯船は設置されていない。

 せっかく高い金を払ったというのに、風呂となれば傑くんも真人くんもわたしの家の風呂を使っている。シャワー室の灯りが点くのは、誰かが血を浴びて帰ってきたときだけだった。

 傑くんは「の家で血なんて洗い流せないだろう」と真面目くさった口振りだったが、どうして返り血を浴びるような粗末な戦闘は控えるという思考に至らないのだろう。ともあれ、事務所の狭いシャワー室は、もっぱら戦闘で付着した血液を洗い流すための場所として利用されている。

 三面鏡の洗面化粧台の下部には収納スペースが備え付けられていた。洗面器の真下の引き出しを手前に引けば、銀色のドライヤーが横たわっている。

 真後ろに立つ脹相くんに見えるよう、身体をシャワー室の扉へと寄せつつ、

「これがドライヤー」

とドライヤーを取り出して、手早く引き出しを押し込んだ。まとめた黒いコードを解くと、電源プラグを指で摘まみながら、脹相くんに示すように説明を加えていく。

「電気で動くから、使う前に、必ずこの線をこうやって差し込んで……」

 三面鏡すぐ下のコンセントと電源プラグを接続して、ドライヤーの持ち手部分を脹相くんの顔に少しだけ近づけた。精巧に整ったかんばせを見ているだけで咥内が砂漠と化す。

 次の言葉が出て来なくなる前にスライド式の電源部に視線を落とし、「これが電源」と小さな声で告げた。ややあって低い声が響く。

「……読めん」

 どうやら電源部に沿うように印字された英単語のことを言っているらしい。

「上からターボ、ドライ、セット、オフ。ドライヤーの風の強さを表していて」

 そこで言葉を切ると、親指の腹を電源部に添えた。口で説明するよりも、実際に目で見たほうがわかりやすいだろう。電源を入れるとすぐにドライヤーは唸り声を上げた。カチカチとスイッチを上下すれば、ドライヤーから吹き出す風の強さがたちまち変化する。

「スイッチをこうやって切り替えると、風量が……」

 言葉はそれ以上続かなかった。ドライヤーを持つ手が、脹相くんの大きな手に覆われたせいで。

 脹相くんが、わたしの手ごとドライヤーを掴んでいる。

 突然のことに頭は真っ白だった。動揺に震える視線を持ち上げられない。重なるように乗せられた親指の爪は面積が広く角ばっている。男の人の爪だと思うともう駄目だった。たちまち身体が沸騰して、身動きが取れなくなる。

 わたしの指を上から押さえ付けるようにして、脹相くんはドライヤーの電源を入れたり切ったりした。ごうごうと唸るドライヤーの風がわたしの髪を揺らす。差し込まれた黒百合の存在を思い出し、強張った唇を懸命に割った。

「脹相くん、あの」
「聞いている。理解もできている。構わず続けろ」

 抑揚のない声音に小さな首肯を返す。人工的な風の音より、脈打つ鼓動のほうが何倍も喧しい。わたしは静かに呼吸を繰り返すことで昂る感情をなだめようとした。気休め程度にしかならないとわかっていても。

 声が震えないよう気を払いながら、今度は電源部の上部に張り出した別のスイッチを示す。

「これが、温風と冷風の切り替えスイッチで」

 急に影が落ちてきて、手元が暗くなった。疑問を覚えた次の瞬間には背中に熱を感じていた。緊張した腰に大きな手のひらが添えられて、びくっと肩が跳ねる。ドライヤーを落とさずに済んだのは、脹相くんがわたしの手を掴んだままだったからだろう。

 口から心臓がこぼれ落ちてしまいそうだった。泳ぎ回る視線は三面鏡をなぞる。脹相くんがわたしにぴったりと密着していた。腰に添えられた手は控えめで、抱きしめるというにはいささか物足りない。

 鏡越しに目が合う。光らない瞳はわたしを一瞬で絡め取ると、上体を丸めてわたしの首元に顔を寄せた。まるで見せつけるような仕草に呼吸が止まる。身動きひとつ取れなかった。自分の身に何が起きているのか理解すること、それ自体を脳髄が拒んでいるようだった。

 脹相くんがわたしと視線を絡めたまま、首筋に唇を這わせようとしたとき――わたしは三面鏡に映り込む存在を認識した。押し出されるように「え」と短い声が漏れると、鏡に映った青白い顔が微笑に歪んだ。

「どうぞ気にせず続けて?」

 今にも顔から火が噴き出しそうだったし、直後に耳を打った「アイツは放っておけ」と落ち着き払った声音がまるで信じられなかった。全く動じていない脹相くんを払いのけるようにして、悪戯な笑みを浮かべる真人くんの前に立つ。

 きつく睨み付けると、真人くんはあどけない表情で首をひねった。

「アレ?邪魔されたから怒ってんの?なんで?俺は見てただけだし、気にせず続けてって言ったじゃん。だってそうすればそのまま脹相とセッ――」

 全身の毛が勢いよく逆立って、栓を切った羞恥心が唇を滑らかに動かした。ありったけの殺意を込めた秘呪が紡ぎ出される。

「天切る、地切る、八方切る、天に八違――」
「あっ、バリアバリア!もう効きませーん!喰らえ、俺のターン!必殺――」
「オン・アミリティ・ウンハッタ!」
「はァ?!軍荼利小咒ってそれ反則!ガチの結界じゃん!」

 こちらを指差して怒鳴る真人くんが地団太を踏み鳴らしたとき、

「ちょっと。二人でなに騒いでるのかな?君たち小学生?」

 困り果てた響きと共に、包丁を持った傑くんが姿を現した。鈍色に輝く鋭利な刃物に、真人くんとわたしは瞬く間に釘付けにされてしまう。

「うわ夏油怖っ。包丁持ってウロウロすんなよ。あと刺すならにしろよ」
「ごめんなさい傑くん刺さないで」
「大丈夫だよ、。刺すなら真人にするから」
「なんで?!俺お前になんかした?!なんかしたのは俺じゃなくて脹相だってば!」

 ぎゃんぎゃんと吠え立てる真人くんの脇をすり抜ければ、「、頼むよ。イカれた奴から俺を守ってくれ」と強い語調で両肩を強く掴まれる。さすがの傑くんも真人くんにだけは言われたくないだろうし、こと接近戦において真人くんは無類の強さを誇る。守ってほしいのはわたしのほうなのだが。

 背後で傑くんを威嚇する真人くんは無視して、微笑を湛える傑くんに視線を送った。笑顔で包丁を手にしているだけで得も言われぬ凄味があるのは、相手が傑くんだからだろうか。

「任せっきりでごめんなさい」
「構わないよ。具材は全て切ったけど、その先はまだ」
「ありがとう、傑くん」

 笑みを返すと、肩から手を外した真人くんが首に抱きついてきた。

「ねぇ、今夜は何を――って、苦しいんだけど?」

 突如耳朶を打った不満げな声に、わたしは反射的に振り向く。引き千切らんばかりに後方へと引っ張られた黒い服が、死人じみた青白い首を強く圧迫している。気道を塞がれているにも関わらず、血の気のない顔には動じた様子もない。

 色の異なる瞳がなぞるのは、無表情で服を引っ張る脹相くんだった。黒い生地を手に巻き付けるように絡め取りながら、自らのほうへとより強くその腕を引く。真人くんの上体が僅かにわたしから離れ、どろりと濁った双眸は血色の悪い顔を深々と穿つ。

「近い」
「そりゃ抱きついてんだから近いよ。遠かったらおかしいだろ」
「そういう意味ではない」
「だろうね。服が伸びちゃうからさっさと離せよ。俺のためにってが作ってくれたものなんだから」

 うんざりと真人くんが吐き捨てると、脹相くんの片眉が微かに跳ねた。服を掴む手が緩む気配はどこにもない。張り詰める空気に無言を貫こうとしたそのとき、穏やかな響きが緊張で強張った鼓膜を震わせた。

、彼らは放っておいてカレーを作ろう」

 嘆息する傑くんに頷いて、「真人くん離して」と小さく懇願する。絡み付いていた腕は意外にもあっさりとわたしを解放し、脹相くんに向かって「ほらもういいだろ。離せって」とげんなりした口調で抗議した。骨張った手が離れると、伸縮性を欠いた黒い生地がだらりと垂れ下がった。

「あーあ、やっぱり伸びちゃった。ところで夏油、さっきカレーって言った?」
「言った。今夜はキーマカレーだよ」
「それ本気で言ってる?」

 呆れ返った様子で真人くんが肩をすくめた。その視線は無表情な脹相くんに向けられている。

「受肉して初めての食事だろ?もっと薄味の食べ物にしたほうがいいんじゃないの?舌がびっくりしちゃいそう」

 もっともな意見にわたしは目を泳がせた。

「……じゃあ、おかゆとか?」
、君は“適当”って言葉知らないわけ?つまり“ほどよい”ってこと。のそれは極端なんだよ」

 その口振りは厳しいものだったが、わたしの顔を覗き込む真人くんは茶目っぽく唇を尖らせている。返答にまごついていると、傑くんが柔らかな物腰で会話に加わる。

「献立を決めるのはだよ。それにもう準備は整えてしまったからね」
「わかってるけどさぁ」
「食べられない物を作るわけじゃない。の料理はどれも絶品だよ」
「そりゃそうだろうけど……脹相は?なんか食べたい物ないの?」
「何でも構わん」

 抑揚のない声音に真人くんと傑くんが顔を見合わせた。傑くんは肩を落としてかぶりを振ると、踵を返してキッチンへと戻っていく。ドライヤーを片付ける脹相くんを横目に、真人くんは長い溜め息を吐いた。

「脹相、それ一番困るやつ。あと絶対言っちゃ駄目なやつ。に嫌われるよ」
「嫌わないよ!」

 即座に否定すれば、相変わらず感情の乏しい顔がこちらを向いた。顔に熱が集中するのを感覚しながら、しどろもどろに言葉を紡ぐ。

「えっと、これは、その、深い意味とかはなくて」
「えー?ないって言い切っていいんだ?」
「……ない、わけではないけど」

 にやにやと笑う真人くんを一睨みしていると、脹相くんが真人くんを押しのけるように歩いてくる。すれ違いざまにわたしを一瞥し、平板な声で淡々と言い放つ。

が作るなら何でもいい」

 すとんと落ちた肩が特徴的な背中を、何度も瞬きしながら見送る。呆然とするわたしの頭を撫でつけたのは真人くんだった。三日月形に歪んだ悪戯っぽい唇が弾んだ声を落とす。

「よかったね。気合い入れて作ってあげたら?」
「うん」

 何を任せても手際のいい傑くんにも味見してもらいつつ、数種類のスパイスを調合してキーマカレーを時間をかけて作り込んでいく。静かに鍋をかき混ぜて投入した具材から旨味を引き出していると、「ー!」と明るい声に呼ばれた。

「カレー煮込んでる間に、コレやろうよ」

 継ぎ接ぎだらけの顔の前で、黒い石の付いた指輪が光っている。